「お話(仮)」
第3話 『わだつみの旋律』
数日前。クリスが店に入ると、そこではルビアがカウンターの奥にうなだれるように座っていた。
「あら、怪我はもう平気なの?」
「ふふ、“副収入”がなくなった今、少しでも早く仕事復帰しなきゃ……でしょ?」
身を起こしながら相変わらずの調子でルビアは笑うが、その動きはまだぎこちない。
「悪いけど、そういう訳だから、情報も少し値上げさせてもらうわね」
聞きたい事は見当がついた。彼女は自分の正面にクリスを座らせると、丸い氷を一個グラスの中に落として言った。
「クリス。あんたが見た『蒼き鬼の棺』だけれど、あれは昔屋敷に仕えていた男の置き土産でね」
「気になるわね。何者なの? その男」
「聞いた話じゃ、少数民族の末裔で、石に魔力を注ぎ込む不思議な術を心得ていたとか……」
ルビアの言葉と共に注がれた洋酒が、静かにグラスの中の氷を浮き上がらせる。
「で、彼は今どこに?」
「さぁ。もう十年近く前に屋敷を出ていって、そのまま行方不明。探すのは諦めた方がいいわね」
その後、少しの沈黙を挟み、吐息交じりの声でルビアはこう付け加えた。
「でも、もしもその男が、屋敷を去る直前に自身の研究を書物に残していたとしたら……?」
途端にクリスの表情が変わる。
「いい反応ね。そう、その名も『蒼炎の書』。随分前、ゴルゴンゾーラが海向こうの港町に住む知人に貸してそれっきりになっているみたいで……。まぁ、その先は自力で何とかして頂戴」
グラスごしにルビアは肩をすくめ、クリスの見詰める先で、青色の酒が妖しくゆらめく。
○
「北の大陸の、名も知らぬ“知人”か。本当にそんな手掛かりで見つかるとでも思っているのか?」
遠い眼差しを海に向け、溜息まじりにシヴァが問う。
「大丈夫よ。きっと何とかなるわ。それに……」
クリスの表情から余裕の色が消える。その後、一呼吸置いて彼は言った。
「今のままじゃ“紅い獣”とマトモに戦えない。そうでしょ?」
瞼の裏で、あの夜、屋敷で対峙した黒き刺客の姿が蘇る。
禍々しい波動、底知れぬ威圧感、そして――恐怖。
「尋常じゃなかったわ」
「クロウのことか」
先手を打ってシヴァが口を開く。
「奴は“鳥”を司る組織の幹部。したたかで、残虐で……恐ろしい男だ」
彼女の表情が何より相手の脅威を物語っており、二人の間に沈黙が走る。
――と。
「何の相談だい? イイ男の話なら、あたいも混ぜてくれよ」
突然隣席から声をかけられ、同時に顔を上げたクリス達の目に飛び込む一人の女。
そのまま二人の間に割り込むような格好で女は言った。
「横からゴメンよ。あたいはグレーシャ。あんた達、ひょっとして海を渡る気かい?」
明るい山吹色の髪が潮風になびく。
「えぇ、そのつもりよ」
クリスが頷いて答えると、その女、グレーシャは彼のすぐそばへすり寄って言葉を続けた。
「なら目的は一緒だね。なぁ、あたいら手ぇ組もうよ」
「結構だ。クリス、船を探しに行くぞ」
どこか嫌な感じを覚え、足早に歩き出すシヴァ。すると、そんな背中にグレーシャは言った。
「……まぁ、無理だと思うよ。今、ここいらの船乗り連中はみんな怪物に怯えちまってるからね」
「怪物?」
ぴたりとシヴァの足取りが止まる。
「そうさ。何日か前、でかい船が浜に打ち上がってね。まるで巨大な化け物にでも襲われたようなひどい壊れ方で、それきり海へ出たがる奴は一人もいなくなっちまったってワケ」
「巨大な海の怪物だなんて、気になるわね」
「だろ。なら決まりだね」
グローブをはめた両手でクリスの掌を握ると、グレーシャは身を翻し、上機嫌に港を目指す。
「クリスぅ、早く行くよ〜」
半ば勢いに押されながらも、促されるままに席を立つクリス。
すると、そんな彼の腕を掴み、シヴァが低い声で囁く。
「気をつけろ。あの女の目、何か違和感があると思わないか?」
「あぁ、それならきっと……」
自身の目を交互に指差してクリスは微笑む。
「右目が赤で、左目が金。そういうの、確か“オッドアイ”っていうのよね」
あっけらかんとした顔で答えるクリスに、シヴァは呆れ顔で溜息をついた。
○
椰子の木が並ぶ海岸通りをしばらく歩いた頃、ふいに視線を感じてシヴァは足を止めた。
「どうかしたの?」