「お話(仮)」
そう言い残すと、クロウは静かに闇の中へ姿を消した。
止まっていた時計の針が動き出すように、辺りに再び穏やかな空気が戻る。
「夢から、覚めたような気分だ」
両手で天を仰ぎ、ゴルゴンゾーラが小声で言った。
「この世のすべてを我が掌の上で動かす、長い長い夢から」
クリスは何も答えず、シヴァの前で屈み込むと、両手で彼女を抱き上げた。
その胸元から、雨に濡れた紅い薔薇が転げ落ちる。
「もうすぐ朝だわ」
町一番の高台から望む朝日。そのまま、ゆっくりとした足取りでクリスは屋敷を後にした。
呆然と空を見上げる屋敷の主と、石の破片。そして、踏み潰された鉛の指輪だけを残して――。
○
灰色の空と向かい合ったまま、幾ばくかの時間が過ぎた頃。ふと、こちらに近付いてくる小さな足音に気付き、ゴルゴンゾーラは口を開いた。
「……ヨウ、か」
雨は激しくなっていた。
「貴方が孤児院から僕を引き取って十年、貴方の会社は何百人もの大きな組織になったね」
「もう、そんなになるのか」
ヨウは屈み込んだ。その顔は笑っている。
「『牙』になるには、まず戸籍を消さなくちゃいけないんだよね。確か、僕は“溺死”だったかな」
ヨウが指を鳴らした。
――翌日。新聞各誌の見出しには、宝石商ゴルゴンゾーラが庭の池に飛び込んで死亡したという記事が大きく報じられた。
○
小さな香炉の置かれた室内。
虚ろな煙に包まれ、クロウは倒れるように羽のソファに腰を落とした。
「今回は少々遊びが過ぎましたね」
独り呟き、額に当てた手でその長い黒髪をかき上げるクロウ。
「それにしても、あの時……」
屋敷の廊下で、彼がルビアめがけて鉄槍を振り翳した、その瞬間――。
「やはり、賭けは私の負けのようですね……シヴァ。貴女は覚えていないかもしれませんが、あの時、貴女の内なる力は我が身を凌駕し、たちまち私から人の姿を奪い去った」
翳した右手を見上げ、クロウはゆっくり手袋を外す。すると、その下から色白の肌に映える紅い“鳥”の印が覗く。
「グレーシャ、次は貴女が行きますか?」
同時に現れた一匹の蛇が、妖しく身をくねらせて彼の腕に絡みついた。
「……」
ベッドに横たわったまま、シヴァは黙って天井を眺めていた。
あの後、怪我の手当ても兼ね、クリス達は町の宿屋に転がり込んだ。顔見知りだろうか。手持ちがほとんど無かったにも関わらず、宿の若夫婦は快く部屋を用意してくれ、長かった夜は明けた。
「シヴァさん、お加減どう?」
ノックの音に続いて部屋の扉が開き、宿の女将が洗濯物を抱えて入ってくるなり、爽やかな笑顔をシヴァに向ける。
「これ洗ったんだけど、ここに置いておくわね」
そう言って彼女は、綺麗にたたまれたシヴァの上着を枕元の棚に置いた。
「迷惑をかけたな」
「困った時はお互い様。これ、クリスの口癖よ」
クリス。その名前にシヴァは一瞬戸惑ったが、すぐに壁の方へ顔を向けて呟く。
「……何なんだ、あの男は。知り合いが多くて、遠慮がなくて。気付くと、いつの間にか奴のペースに巻き込まれている」
すると、女将は微笑み、シヴァの耳元で囁くように言った。
「あなたは、そんなクリスは嫌いかしら?」
思わぬ問いに少し考え込み、シヴァは小声で答えた。
「好きだ嫌いだというより、全く異質の……自分でもよく分からない何かだ」
直後、彼女は何やら恥ずかしいことを口走った気になり、毛布に頭をうずめた。
女将がそっと部屋の明かりを消す。
「そう……。安心して、クリスには言わないわ」
その日の午後。情報収集を終えて宿へ戻る道中、クリスは複雑な表情で新聞に見入っていた。
――と。
「浮かない顔だな」
すぐ傍で声を掛けられ、クリスが視界から新聞をどける。
声の主はシヴァだった。いつものコートは着ておらず、白くて華奢な体を宿屋の壁に寄り掛かけて立っている。