「山」 にまつわる小品集 その参
外履きのまま入った20畳ほどのリビングには、マントルピースが置かれていた。その前に敷かれたマットの上では、前足を折り曲げて伏せている鹿が、ふたりを見ている。思っていたほど大きくはない。
「芳雄、刑事さんだよ」
やさしい声色で語りかける薮本に、鹿は頭を上下にゆっくりと振っている。
「ほう、言葉を理解してるんですね」
野中に変わって三好が質問を始めた。
「薮本さんは2年前、この下の道路、最近発生している事故現場あたりで、やはり車の事故で、奥様とたったひとりの息子さんを亡くされていますよね。運転を誤って崖下に転落された、と聞いています。息子さんの名前は芳雄さん、という」
野中は鹿のそばに寄って、鹿に視線を送っていた。
三好が続ける。
「ここで天体観測をされているんですか?」
「芳雄は学校になじめず、家に引きこもっていました。ただひとつ、宇宙にはひどく関心を持っていました。それで天体観測ができる場所を求めてここへ来ました。事故の3年前です。芳雄が亡くなったのは17の時です」
鹿を見つめる薮本の瞳に、尋常でないほどの慈しむような眼差しを感じ、野中が鹿をなでながら尋ねた。
「鹿はいつから飼っておられるのですか?」
「5年・・になるでしょうか。ここへ来た時に飼い始めました。芳雄のいい友達がわりです」
「あなたのことを少し調べさせてもらいましたが、神奈川の病院で外科医をされていましたね。奥さまと息子さんを亡くされた後、辞めてしまわれた」
じっと薮本に視線を投げかけて、続けた。
「芳雄、というのですか、この鹿。ひょっとして事故後に名前を変えられた?」
「それ以前は、ミューと呼んでいましたが、息子のことが忘れられなくて・・・」
三好が後を引きとって尋ねる。
「外に出ていくことは?」
「うちの鹿と事故を結びつけようというのですか? 1日に1回外に出します。午前中に1時間ほど。しかし、家の周辺から遠くへは行きませんよ!」
野中は、鹿を観察し続けた。
鹿はじっと野中を・・睨みつけるように・・見つめていた。
「いや、どもども、ありがとうございました。三好君、お暇しようか」
作品名:「山」 にまつわる小品集 その参 作家名:健忘真実