見えない
不意に、嗅ぎなれたにおいがした。
精霊よりも妖怪のほうがずっと嗅覚が鋭い。森主は精霊から妖怪になった。だから、今まで嗅ぎ取れなかったようなものも嗅ぎ取れるようになったのだ。
森主は夢中になってにおいを辿った。体のだるさなど忘れ、ただただ走る。そして、彼の前に崖が現れた。それほど高いものではないが、弱いものならすぐに死んでしまうだろう。
しかし、嫌な事にそのにおいは、確実に崖の下から上がってきていた。森主は下に茂った木に目をつけて、地面をけって飛び出す。中空にいるほうがいつもの感覚に似ていて、本来の調子を少し取り戻した。
緑色の茂みに音を立てて落ちると、木の枝で手足に切り傷がついた。大して痛くないが、動かすとツキンと刺激が走る。手の甲についた切り傷をぺろりと舐めると、森主は軽々と木から飛び降りた。この動作なら慣れている。と、その時だった。
「あ・・・」
何かが見えた。何かは解っているのだが、認識したくない。チアノーゼの目立つ手が、嗅ぎなれたにおいが、見慣れた薄汚い衣が、それを断定していた。湧き出る恐怖を抑えながら、彼は思わず手を伸ばしていた。僅かに妖怪の邪気が感じ取れる。それに対する興味だけが、虚無な彼を動かしていた。ずるりと、それが姿を現す。彼は思わず息を呑んだ。