見えない
やはり、そうだった。それは彼女の亡骸だった。いや、正式に言えば亡骸ではない。意識もないし、確かに死にかけているが、僅かに息が出ているし、血が流れ出している。崖から落ちたせいか彼女はひどい状態になっていて、それでも彼はためらわずに彼女を抱えた。そのまま森をひた走る。もしかしたら、助かるかもしれないと思いながら。
どこが出口だったっけ。彼は虚ろに考えた。いつも木の上で眺めていたのに、もうほとんど覚えていなかった。
彼女を抱えたまま走ること十五分、森主は森を出た。初めて出た森の外に感動を覚えることは無く、ただ草のない砂利道に痛みを覚えながら探す。誰か、誰か、誰か!
誰か、彼女を助けてくれ。
そこでふと、森主は思い出した。走っていた速度はだんだん落ちて、ついには倒れこむ。腕の中にいた彼女は転がり、遠くでじっとこちらを見ていた。そんな中で彼は絶望に陥る。自分に彼女は助けられない。なぜなら、自分は人間には見えないから。
自分は、人間が見えないから。
悔しさが込み上げてきた。自分は他の妖怪や精霊より強い。だから、こんなに無力さを感じることは無くて、でも今はそれを痛いほど痛感していた。倒れこんだ森主に、不意に声がかかった。
「あれ・・・、下に、いる」
はっとして顔を上げると、彼女がこちらを見て笑っていた。青い顔で、紫の唇で、それでも精一杯の笑顔だった。迷わず森主は駆け寄った。
「話さなくていい、最後くらい、泣いてもいいから」
もう、彼女の反応は無かった。こんなにひどい姿で、幸せとはいえない人生を歩んでいたのに、その死に顔はあまりにも幸せそうに微笑んでいた。
それが、彼女との初めの別れだった。