鞄の中
いつまでもここにいては邪魔かと彼はもう一度謝罪すると、自分の寝台へと向かおうとする。
しかしその背を引きとめる声があった。
「ちょっと待ってください。これも何かの縁、少し話し相手になって頂けませんか」
これといって断る理由はないし、人の寝台で寝てしまったという負い目もある。
「俺なんかでよければ」
話すのであれば客車に戻るのかと思ったが、男性は寝台に腰掛け、隣を軽く手で叩く。
寝台は男二人で座っても十分な程の大きさはある。
彼は少し開けて男性の隣に腰を落とした。
とはいったものの、いきなり見知らぬ人と会話せよと言われて話すことなど特にない。
軽い自己紹介の後は気まずい沈黙が訪れた。
苦し紛れに彼が周囲に目をやり、真っ先に視界に入ったのがあの黒い鞄だった。
「あの、その鞄は何が入っているんですか?」
「これですか?」
「ええ、随分と大切そうになされてましたよね」
普通に考えれば日用品などだろうが、そんなものを丁重に扱う人間はそういない。
考えられるのは土産か、仕事の取引に使う商品かもしれない。
精密機器ならばあの扱いも頷けるが、手荷物として運ぶのかは些か疑問だ。
「この中にはですね、私の娘が入っているのですよ」
娘?
何か聞き間違えただろうかと彼は真っ先に疑ったが、男性の鞄を見る瞳がそれを否定した。
愛おしげな、これ以上大切なものはないと訴えかける優しい瞳。
冗談にしてはあまりにも真摯な瞳だ。
熱情ではなく何処までも甘やかな慈愛を湛え、鞄を、あるいはその中にある何かを見るそれは、丁度客車にいた夫婦の幼い娘を見る目に似ている。
鞄に触れる手は、子どもの頭を撫でる手つきそのままだ。
「娘さん、ですか」
「はい、今年で十六になります」
中年に近い男性の実の娘ならば、なるほど、年齢は合っている。
だがそれと鞄の中に娘が入っているなどという妄言とは別の話だ。
男性は何らかの精神疾患を患っているのではないかと彼は考えた。
鞄の中にあるのは人形か何かで、それを娘だと思い込んでいるのかもしれない。
彼は一先ず男性に話を合わせることにした。
「貴方は私が狂っているとお思いかもしれませんね。ですがこれは事実なのですよ」
彼は見透かされたと思った。
だが話をどう受け止めるかは聞き手の自由だ。
本物の狂人は自らを正常だと思うらしい。
男性もその類かもしれない。
そう思う反面、男性の話に彼が興味を抱いたのも事実だった。
騙されているのか相手が本物の狂人なのか、あるいは全て事実なのか。
どれであろうと興味深いことには変わりない。
「では貴方のお嬢さんはなぜ鞄の中に入っているのですか?」
「そうですね、まずはそこからお話しましょうか」
男性は静かに語りだした。
私の家は森に囲まれた水の美しい町にあります。
朝には雲雀の囀りが、昼には教会の鐘の音と町民の笑い声が、夜にはナイチンゲールの鳴く声が響いていました。
古く小さな町でしたが、それほどの不便はありませんでした。
日に一度訪れる荷を積んだトラックと、週に四度来る鉄道が外界と町と繋いでいました。
ええ、そうですね、閉鎖的な町であったということは否定できません。
ですが排他的であったわけでもないのです。
私があの町に住むようになったのは妻と結婚してからですが、よくして頂いています。
妻がその町の出身でして。
ええ、旅の方にも親切なので、一度寄ってみてはいかがでしょう。
話が逸れてしまいましたね。
結婚して二年が過ぎた頃でしょうか、妻との間に子どもが生まれました。
ご察しの通りです。
今この鞄の中にいる娘です。
十年前に交通事故で……。
ええ、その時娘も妻と一緒にいたのです。
一命を取り留めた娘でしたが、酷いものでした。
脳や生きるために必要な臓器の方には支障はなかったのですが、天使の様な顔は二目と見れぬものになり、傷口から感染症を引き起こしていました。
くりくりとつぶらで感情をよく表す目は片方が潰れ、鼻から顎にかけては筋肉が剥き出しになっていました。
ふっくらとした唇も小さな鼻も、かろうじて何処にあったかがわかる程度です。
残った皮膚も菌に侵され青や紫や緑の斑模様を描いていました。
柔い手足はタイヤと地面に挟まれすり潰され、下半身の骨が肉から覗いていました。
素人目にも娘が長くないことは、生きられても決して女性としての幸せを手に入れられぬことはわかっていました。
私は医者ではありません。
ですが人体についてある程度は知っています。
閉鎖的なあの町にいる医者よりは、マシだと思われる程度には。
どんな姿になっても娘は私の娘なのです。
誰よりも可愛い、血を分けた私の娘。
妻の亡き今、娘が生きていることだけが私の唯一の支えだったのです。
そう、たとえどんな姿になっても。
人間が生きるために必要なものは何だと思いますか?
極端に言えば脳、そして脳に栄養を送るものがあれば生きられるのです。
ですから私は感染症に侵されてしまった部分を除去し、娘が生きる上で必要な栄養を送る為の装置を作り、この鞄の中に収めたのです。
不思議とこうなってみると言葉というのは意志疎通にあまり必要ないということに気付くのです。
娘の残った目を見ていると何を言いたいのかわかります。
娘の喜びも、悲しみも、怒りも、本当に知りたいと思えば伝わってくるものです。
娘には四肢がありません、皮膚がありません、心臓以外の筋肉がありません、子宮が、腎臓が、胆嚢が、体を構成するあらゆるものがありません。
ですが娘は生きています。
私は幸せです。
悲しむことなど何もありません。
妻は確かに死んでしまいましたが、彼女の遺してくれた可愛い娘はずっと傍にいてくれるのです。
私は本当に、幸せです。
「ああ、すみません。自分のことばかり長々と話してしまって」
「いえ……」
彼はそれ以上何も言えなかった。
男性の話に圧倒されてしまっていた。
男性の目は嘘をついていない。
本当に、心の底から、幸せなのだ。
喪ったものを悼みながら、それでも今ある幸せを大切にしようと前向きに生きている。
彼はぞっと背骨が凍りついたのを感じた。
紛れもない、それは恐怖だった。
得体のしれないものに触れてしまったという恐れだ。
本能が、これ以上の深入りを避けろと訴えかけてくる。
「どうです、ラテでも買ってきましょう。私も喉が乾いてしまいました」
その申し出は彼にとってひどくありがたかった。
寒気が止まない。
何か温かい物が欲しかった。
食堂車の一角にあるビュッフェで飲み物や軽食を購入できるので、男性はそこで買ってくるつもりなのだろう。
「お願いします。お金は後で払いますので」
「いえ、是非私に奢らせてください。話しを聞いてくれたお礼と言っては何ですが」
断るのもなんなので、彼はその申し出を受け入れた。
男性は人の良さそうな笑みで席を立った。
あの鞄を、寝台の上に残して。
彼は考える。あの男性の語ったことは、本当なのだろうか。
本物の狂人なのか、それとも妄想なのだろうか。
男性は簡単に言っていたが、生命維持のための装置など素人がそう簡単に作れるとは思えない。
ましてや鞄の中に入れて持ち運べるなど。