鞄の中
彼は旅をこよなく愛していた。
知らない街、見知らぬ人々、美しい風景、異なる文化、全てが愛おしくて堪らない。
小さな荷物を片手に新たな出会いを求めて旅を続ける。
一ヶ所に腰を落ち着ける気はない。
きっと生きている限り、彼は彷徨うのだろう。
そういう風にしか生きられない人間が、世の中には確かにいる。
彼はその内の一人だった。
心地よい振動を全身で感じながら、蒸気機関車を選んだのは正解だったと彼は小さく笑みを零した。
進行速度はゆったりとしていて、けたたましい蒸気と圧縮された空気の音が耳に着くが、それを不快に感じるのではなく風情と受け止められなければ、わざわざ蒸気機関車に乗る意味はない。
車両には乗客はそう多くない。
車両に入ってすぐの席に座った彼からは、乗客の様子がよく見える。
小さな女の子を連れた若い夫婦が仲睦まじげに談笑し、品の良さそうな老婦人は時々眼鏡のつるを上げながら背中を丸めてレースを編んでいる。
一番奥の座席には中年に差し掛かろうという男性が静かに窓の外を眺めていた。
することがない彼は車両の中を見回した後、外の風景に視線を移した。
生命力溢れる緑の木々、汽車の音に驚かされ葉陰から飛び立ったあの小さな鳥はどんな声で鳴くのだろうか。
鳥の生態に明るくない彼ではさっぱり見当もつかない。
小さな女の子が通路を軽やかだが頼りない足取りで彼のいる方向へ走ってくる。
列車の中を探検でもするのだろうか、片腕に少し汚れた人形をきつく抱えている。
「これどーぞ!」
子ども特有の甲高い声に目を向けると、小さなぷっくりとした掌の上にセロファンに包まれた棒付きの丸い飴が一つ乗っていた。
彼はきらきらと自分の好意が受け入れられると信じてやまない少女の顔を見て、もう一度飴に目を落とした。
甘い物は嫌いでないし、ここで受け取らないのも大人げない。
「ありがとう」
指先で棒の部分を摘んで微笑むと、少女はきゃらきゃらと笑いながら両親の元へと走って行った。
小さな親切をしてきたリトルレディを温かく迎え入れる両親にも目だけで礼を伝えて、彼は飴玉のセロファンを剥がした。
少し大きめの飴は赤い色をしている。
走る時代を間違えたような気さえさせる落ち着いた色合いの汽車の中で、目の覚める鮮やかさだ。
棒を持ったまま口の中に放り込むと、砂糖の甘さが彼の舌に沁み込んだ。
複雑な味ではない、安っぽい単調な甘さ。
だが、嫌いな味ではない。
もう一度少女の方に目を向けると、今度は男性の方にも飴を差し出していた。
優しいが、少し落ち着きのない子なのかもしれない。
男性は目尻を少し下げて飴を受け取ると、少女に銀紙で包まれた物を一つ渡した。
大きさからしてチョコレートだろう。
少女は跳び上がるように喜んで両親へと駆け寄る。
そちらを見ていたからだろう、彼は男性と目が合ったので、咥えていた棒付き飴を小さく掲げて微笑んだ。
男性も静かに、年齢故の思慮深さを感じさせる笑みを返した。
彼は飴を咥え直して口内で溶けていく甘さを楽しむ。
女の子が老婦人に飴を渡して頭を撫でられていた。
小さなバッグから取り出した菓子であろう白い包みを渡されて、ご満悦で両親の元へ戻って行く。
飴を渡された二人が他の菓子を渡しているというのに彼の鞄の中には菓子類は一切入っていないので、女の子が他の菓子を期待していたならば少し可哀想なことをしたかもしれないと彼は飴に前歯を立てた。
男性は受け取った飴を黒革の旅行鞄の中に入れる。
後で食べるのだろうかと彼は砕けた飴を奥歯で噛み砕く。
嫌いではないけれども、彼の舌には少し甘すぎたかもしれない。
時間は十一時半、この列車内には食堂車や寝台車が連結されているので、望めば一度も列車から降りることなく温かい昼食を摂ることができる。
彼はどうせ食事代はチケット代に含まれているのだからそれを堪能しようと、ジャケットを羽織り、早めに食堂車へと足を運んだ。
時間が早いせいか、食堂車に人はいない。
彼は適当な席に座る。
客車同様シックな色合いの上品な内装は古き良き時代を感じさせられる。
よく磨かれた木が車内の灯りに照らされ、温かみのある光沢を返す。
走行中の列車内だというのに渡されたメニューの中身は豊富で、さて何を食べようかと文字を目で辿る。
この辺りの言語は会話や読むだけならば支障はない。
メニューもそれなりに理解できる。
散々悩んで五種類のパンが付いた野菜とチキンのシチューに、ミックスサラダを注文する。
メニューを見る限り値段はやはり列車内ということで割高だが、量は結構ある。
話す相手もいないので、ボーイが持って来た食事を彼は黙々と平らげ、食べ終える直前になってメランジェとデザートにアップルパイを追加でオーダーした。
窓からの風景を眺めながら、温かいコーヒーをゆったりと胃の中に流し込んでいく。
かたんかたんと揺れる音と囁く様なおしゃべりの声以外は殆どない静かな車内に、腹が満たされたせいだろうか、カフェインを摂取しているというのに段々と睡魔が忍び寄る。
あやされ眠る赤ん坊がこのような感覚なら、さしずめこの列車は揺りかごだろうかと、彼は行儀の悪さを気にしつつもテーブルに肘を付いた。
うつらうつらと目蓋が落ちてくる。
流石にここで眠るのは拙かろうと、立ち上がり寝台車に向かう。
あまりにも眠気が覚めないようであれば昼寝をすればいい。
寝台車は食堂車とは客室を挟んで反対側に位置する。
食堂車を出る時に誰かとすれ違ったような気がしたが、意識が薄れかけている彼に意識する余裕などなかった。
二段になっている寝台が並ぶ車内でおぼろげな意識で必死に記憶を辿る。
自分の寝台はどこだったか、チケットを出せばすぐわかるのだろうが、それだけの行動が今の彼にとっては億劫で仕方がなかった。
かといって他の乗客の寝台に横たわるわけにもいかない。
途切れそうな意識を繋ぎ合わせながら寝台の番号を見て歩く。
記憶にある番号と寝台の配置に、彼は迷わず体を横たえた。
「もしもし、起きてください」
列車以外の振動に体を揺すられ、彼はいささかすっきりした頭で目を開いた。
黒い人影に段々と焦点が合うと、それが同じ客室にいた男性のものだと気付く。
困ったように寄せられた眉根に、慌てて飛び起きる。
「もしかして、ここは貴方の寝台ですか?」
「ええ、番号が合っていれば」
差し出されたチケットと枕元に記された番号は同じだった。眠気のあまりの失態を彼は知る。
自分の寝台は一つ隣だ。
注意していた筈なのにとバツの悪い顔で眠っていた場所にある荷物を掴む。
「すみません、すぐにどきます」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
男性の手にはいかにも重そうな大きな鞄があった。
黒い鞄は使い込まれているがしっかりと手入れがなされているようで、革特有の光沢を保っている。
男性は彼が退いたそこに壊れ物を扱う慎重さで鞄を置いた。
中に大切なものが入っているのかもしれない。
寝台のへこみ方から見て鞄はやはりそれなりに重かったようだ。
すぐにでも荷物を置きたかったろうに、勝手に寝台を占領していた申し訳なさに彼は身を縮こめる。
「それじゃあ、その、本当にすみませんでした。失礼します」
知らない街、見知らぬ人々、美しい風景、異なる文化、全てが愛おしくて堪らない。
小さな荷物を片手に新たな出会いを求めて旅を続ける。
一ヶ所に腰を落ち着ける気はない。
きっと生きている限り、彼は彷徨うのだろう。
そういう風にしか生きられない人間が、世の中には確かにいる。
彼はその内の一人だった。
心地よい振動を全身で感じながら、蒸気機関車を選んだのは正解だったと彼は小さく笑みを零した。
進行速度はゆったりとしていて、けたたましい蒸気と圧縮された空気の音が耳に着くが、それを不快に感じるのではなく風情と受け止められなければ、わざわざ蒸気機関車に乗る意味はない。
車両には乗客はそう多くない。
車両に入ってすぐの席に座った彼からは、乗客の様子がよく見える。
小さな女の子を連れた若い夫婦が仲睦まじげに談笑し、品の良さそうな老婦人は時々眼鏡のつるを上げながら背中を丸めてレースを編んでいる。
一番奥の座席には中年に差し掛かろうという男性が静かに窓の外を眺めていた。
することがない彼は車両の中を見回した後、外の風景に視線を移した。
生命力溢れる緑の木々、汽車の音に驚かされ葉陰から飛び立ったあの小さな鳥はどんな声で鳴くのだろうか。
鳥の生態に明るくない彼ではさっぱり見当もつかない。
小さな女の子が通路を軽やかだが頼りない足取りで彼のいる方向へ走ってくる。
列車の中を探検でもするのだろうか、片腕に少し汚れた人形をきつく抱えている。
「これどーぞ!」
子ども特有の甲高い声に目を向けると、小さなぷっくりとした掌の上にセロファンに包まれた棒付きの丸い飴が一つ乗っていた。
彼はきらきらと自分の好意が受け入れられると信じてやまない少女の顔を見て、もう一度飴に目を落とした。
甘い物は嫌いでないし、ここで受け取らないのも大人げない。
「ありがとう」
指先で棒の部分を摘んで微笑むと、少女はきゃらきゃらと笑いながら両親の元へと走って行った。
小さな親切をしてきたリトルレディを温かく迎え入れる両親にも目だけで礼を伝えて、彼は飴玉のセロファンを剥がした。
少し大きめの飴は赤い色をしている。
走る時代を間違えたような気さえさせる落ち着いた色合いの汽車の中で、目の覚める鮮やかさだ。
棒を持ったまま口の中に放り込むと、砂糖の甘さが彼の舌に沁み込んだ。
複雑な味ではない、安っぽい単調な甘さ。
だが、嫌いな味ではない。
もう一度少女の方に目を向けると、今度は男性の方にも飴を差し出していた。
優しいが、少し落ち着きのない子なのかもしれない。
男性は目尻を少し下げて飴を受け取ると、少女に銀紙で包まれた物を一つ渡した。
大きさからしてチョコレートだろう。
少女は跳び上がるように喜んで両親へと駆け寄る。
そちらを見ていたからだろう、彼は男性と目が合ったので、咥えていた棒付き飴を小さく掲げて微笑んだ。
男性も静かに、年齢故の思慮深さを感じさせる笑みを返した。
彼は飴を咥え直して口内で溶けていく甘さを楽しむ。
女の子が老婦人に飴を渡して頭を撫でられていた。
小さなバッグから取り出した菓子であろう白い包みを渡されて、ご満悦で両親の元へ戻って行く。
飴を渡された二人が他の菓子を渡しているというのに彼の鞄の中には菓子類は一切入っていないので、女の子が他の菓子を期待していたならば少し可哀想なことをしたかもしれないと彼は飴に前歯を立てた。
男性は受け取った飴を黒革の旅行鞄の中に入れる。
後で食べるのだろうかと彼は砕けた飴を奥歯で噛み砕く。
嫌いではないけれども、彼の舌には少し甘すぎたかもしれない。
時間は十一時半、この列車内には食堂車や寝台車が連結されているので、望めば一度も列車から降りることなく温かい昼食を摂ることができる。
彼はどうせ食事代はチケット代に含まれているのだからそれを堪能しようと、ジャケットを羽織り、早めに食堂車へと足を運んだ。
時間が早いせいか、食堂車に人はいない。
彼は適当な席に座る。
客車同様シックな色合いの上品な内装は古き良き時代を感じさせられる。
よく磨かれた木が車内の灯りに照らされ、温かみのある光沢を返す。
走行中の列車内だというのに渡されたメニューの中身は豊富で、さて何を食べようかと文字を目で辿る。
この辺りの言語は会話や読むだけならば支障はない。
メニューもそれなりに理解できる。
散々悩んで五種類のパンが付いた野菜とチキンのシチューに、ミックスサラダを注文する。
メニューを見る限り値段はやはり列車内ということで割高だが、量は結構ある。
話す相手もいないので、ボーイが持って来た食事を彼は黙々と平らげ、食べ終える直前になってメランジェとデザートにアップルパイを追加でオーダーした。
窓からの風景を眺めながら、温かいコーヒーをゆったりと胃の中に流し込んでいく。
かたんかたんと揺れる音と囁く様なおしゃべりの声以外は殆どない静かな車内に、腹が満たされたせいだろうか、カフェインを摂取しているというのに段々と睡魔が忍び寄る。
あやされ眠る赤ん坊がこのような感覚なら、さしずめこの列車は揺りかごだろうかと、彼は行儀の悪さを気にしつつもテーブルに肘を付いた。
うつらうつらと目蓋が落ちてくる。
流石にここで眠るのは拙かろうと、立ち上がり寝台車に向かう。
あまりにも眠気が覚めないようであれば昼寝をすればいい。
寝台車は食堂車とは客室を挟んで反対側に位置する。
食堂車を出る時に誰かとすれ違ったような気がしたが、意識が薄れかけている彼に意識する余裕などなかった。
二段になっている寝台が並ぶ車内でおぼろげな意識で必死に記憶を辿る。
自分の寝台はどこだったか、チケットを出せばすぐわかるのだろうが、それだけの行動が今の彼にとっては億劫で仕方がなかった。
かといって他の乗客の寝台に横たわるわけにもいかない。
途切れそうな意識を繋ぎ合わせながら寝台の番号を見て歩く。
記憶にある番号と寝台の配置に、彼は迷わず体を横たえた。
「もしもし、起きてください」
列車以外の振動に体を揺すられ、彼はいささかすっきりした頭で目を開いた。
黒い人影に段々と焦点が合うと、それが同じ客室にいた男性のものだと気付く。
困ったように寄せられた眉根に、慌てて飛び起きる。
「もしかして、ここは貴方の寝台ですか?」
「ええ、番号が合っていれば」
差し出されたチケットと枕元に記された番号は同じだった。眠気のあまりの失態を彼は知る。
自分の寝台は一つ隣だ。
注意していた筈なのにとバツの悪い顔で眠っていた場所にある荷物を掴む。
「すみません、すぐにどきます」
「いえいえ、大丈夫ですよ」
男性の手にはいかにも重そうな大きな鞄があった。
黒い鞄は使い込まれているがしっかりと手入れがなされているようで、革特有の光沢を保っている。
男性は彼が退いたそこに壊れ物を扱う慎重さで鞄を置いた。
中に大切なものが入っているのかもしれない。
寝台のへこみ方から見て鞄はやはりそれなりに重かったようだ。
すぐにでも荷物を置きたかったろうに、勝手に寝台を占領していた申し訳なさに彼は身を縮こめる。
「それじゃあ、その、本当にすみませんでした。失礼します」