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後ろ姿の少年に7 【後ろ姿の少年に】

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 いや、村そのものは確かにそこにあった。しかし、わたしが歩いた砂利道や、通り抜けた生垣や、見上げた道ばたの木々はそこにはなく、拡幅され、アスファルトに舗装された道路だけが、定規で引いたように、ただ真っ直ぐに村を貫き、それは車が村をいかに速く通り抜けられるかを競うもののようであった。両側に並ぶ家々も、藁屋根から二階建ての瓦やスレート葺きの近代建築に建て替えられ、昔の景色を思い出すことすらできなかった。卵を売りに行った家も、豚を追いかけてくぐり抜けた垣根も、もうどこにもなかった。風呂の薪を拾い集めた林も鉄柵がめぐらされ、立ち入り禁止の札がかけられていた。皮肉なことに、人がくず掃きをしなくなった林は枝が重く垂れ下がり、落ち葉が積もり、笹がはびこり、下草が覆い、風の通り抜けも悪く、荒れた印象を与えていた。そのせいかどうかは分からないが、落ち葉の間から、明らかに人の捨てた小型冷蔵庫や、電気釜のふたや、ブラウン管やスクーターの泥除けカバーが姿を現していて、人を排除したことにより、逆に人によって手荒に扱われているように見えた。

 わたしは村を通り抜け、村を見渡す小高い丘の上に車を止めた。丘のふもとには、わたしがこの地を去る頃から始まった開発の波が、大きく打ち寄せていた。昔、通行人を震え上がらせた、昼なお暗く深い森が、十階建ての団地の群れに変わり、まるで敵地を偵察する巡視艇のようにこちらをにらんでいる。ふと、辺りを見まわすと、時間の流れの止まったようなこの村にも、なるほど、近代化の波が四方から押し寄せているのが分かった。だが残念なことにどの波もここまでは十分に届かず、開発の潮溜まりだけを残して引いていったようである。つまり村はどの開発の波からも取り残され、かつて一つにまとまっていたものが、それぞれの波に引かれて中心を失い、四散してしまっているように、わたしには思われた。

 そのような中で、少年時代を思い起こさせるようなものは何もなかった。すべてのものが不協和音に苦しんでいるように見えた。

 残された手段はただ一つだけだった。記憶をたどって、自分の心の中を少年時代へと降りていくこと。

 わたしは団地を見晴らす土手の草に腰を降ろし、あの少年の日を思い出そうと目をつむった。まず手始めに、すぐ目の前に広がっていたあの深い森を思い出そうとした。だが、つむった目の前には広大な闇が、傾く太陽のオレンジの光を受けて赤黒く広がっているだけだった。わたしはなおも目をつむったまま、今度は草の上に仰向けに寝転んだ。

 鼻先を草と土ぼこりの匂いを含んだ風が、ゆっくりと渡って行く。するとその闇の中からぴょんと飛び出たものがある。

 あの黒豚だ。

 わたしは今度こそ絶対に捕まえてやる、と全速力で走り出す。すると横から急に、麦藁帽にかごを背負ったじいさんが、まるで若者のようにさっそうと駆けてきて「おまえなんかに、この豚は捕まえられまい」といった顔つきをして、豚を軽々とつかんで背中のかごに放り込んで、にやりとしてまた駆け去ってしまう。わたしは地団駄を踏んでくやしがる。

「ちくしょう。だから父親なんかいらないんだ」わたしは大声で怒鳴った。そこへ母が姿を現し、無言のままわたしの手を引いて家へ連れて帰る。それから家の上り端に置き去りにされる。少しして、玄関の戸が音もなく開いて、レインコートにパナマ帽姿の男が入ってくる。男は静かにしゃがんでわたしの足を洗い始める。わたしは男の顔をのぞこうとして首を伸ばす。しかし背後に人の気配がする。はっとして後ろを振り向くと、母が怒ったような顔をして上から見おろしている。

「いいかい、明日こそ、ちゃんとお使いをして帰るんだよ」

 そういい残して母は去って行く。わたしは一生懸命買い物をして帰る。帰るなり買い物を上がり端に放りだして「こい」に上がる。すぐに声が追いかけてくる。

「まなぶ、姉ちゃんの居場所を知ってるべ。早く呼んで来い。さもねえと、これからは遊んでやらねえぞ」

 祖母である。わたしは急いで梯子を降りて姉を探しに駆け出して行く。庭を突っ切り、村道へ出て、左右を見まわす。ちょうど姉が自転車でどこかから帰って来たところだ。わたしはすれ違い様に声をかける。

「姉ちゃん、何かしたのか。ばあちゃんがすごく怒ってるみたいだぞ」

「平気、平気」

 姉は気にもしないように自転車を庭に止める。すぐに祖母が来て、巡査みたいに姉を連行しようとする。その勢いにびっくりして、わたしは止めに入ろうかと一足進む。祖母は片手を振り上げ、わたしを制止する。その手にはいつの間にか、折れ曲がった、おもちゃの鉄砲が握られている。わたしが思い切り祖母の腰を殴った、あの鉄砲である。わたしはその場に張り付いたように動けなくなる。

「まなぶは、来ちゃあなんねえ。おめえは卵を売りに行って来い」

 祖母がたたみかける。見れば、わたしの左手に卵入りの手提げが、ぶら下がっている。わたしは反射的に手提げを縁側に置こうとする。そのとき姉が振り返る。姉は舌を出してばかにするように言う。

「あんたね、卵くらい売りに行けなくてどうするの。そんなんじゃ、いつまでたっても独り立ちなんてできっこないわよ。人に頼ろうなんて思ってないで、一人でちゃんと行って来なさい」

 この言葉にわたしはかっとなった。こっちが、ばあちゃんに怒られるのを心配してやっているのに、その態度は何だ。それに、ぼくが卵を売りに行けないだと? ふざけるな。そんな簡単なことができないと思っているのか。ただ、大人にいやみを言われるのが、ちょっといやなだけじゃないか。見てろよ、すぐに行って、五分で売って来てやる。わたしは頭に血が上って、なりふりかまわず、ずんずん歩いて村道に出た。

 村道の端には、大きなトラックが止まっている。脇で卵屋が煙管をくゆらせ、いつもの婆さんと立ち話をしている。わたしは破れかぶれになって突き進む。だがトラックが近づくにつれ、さっきまでの気負いは消え失せ、足取りが次第に重くなる。婆さんが何を言い出すかと思うと、気まで重くなってくる。足はいよいよ地面にへばりついて行く。いったい、いつまでこんなことが続くのだろう。

 ああ、そうだ。こんな気持ちでいたのだ。わたしは思い出して切なくなった。

 道の半ばを通り過ぎたとき、これ以上先には進めなくなった。まるで、透明の壁が目の前に立ちはだかり、わたしが通り抜けるのをじゃましているようだ。その透明の壁の向こうで青空がオレンジ色を増して行く。

 ついに足が止まる。日が暮れてゆく。

 青とオレンジを背景に、肩を落としてたたずむ少年の姿が、透きとおった影絵となって空にくっきりと浮かぶ。

 一瞬、わたしの目が映写機となって空にわたしの心を映しているような、そんな錯覚を覚えた。だが、それが錯覚でないことは私自身が一番よく分かっていた。

 肩を落として村道にたたずむ少年。

 それは、わたしである。

 かつて村に鬱々として楽しまぬ日々を送ったひとりの少年。それは今もなおわたしの心の奥の奥に立ち続けている。わたしはそれを痛切に感じた。