後ろ姿の少年に7 【後ろ姿の少年に】
わたしはもの心つく頃から、毎日、「自分はどうしてこんなに悲しいのだろう」と思い続けてきた。そうしてそれが、「ほかの人はどうして自分にこんな悲しいことをするのだろうか」という問いに変わり、さらに「自分にこんな悲しいことをするその人たちこそ、悲しいではないか」という気持ちへと進み行き、ついにその思いは自分をも含めて、「人はどうしてこんなに悲しいのか」という言葉となってわたしの心の中に沈殿した。それからというもの、何をするにも、また何を考えるにも、結局、最後にわたしはこの言葉に行き着くのだった。人とどんなに楽しくしていようとも、この言葉がわたしの前に姿を現し、この楽しい世界のすぐとなりに悲しい世界が接していて、それこそが真実の世界であり、悲しみをくぐり抜けたものにしかその世界の存在は理解されないのだと、小さく、それでいて、確かな声でささやくのである。
わたしは楽しめなくなった。人と酒を飲んで騒いでいるときも、集まって喫茶店で談笑しているときも、また友人が楽しそうに女子学生と歩いているのを見かけるときも、わたしの心の中にある「人はどうしてこんなに悲しいのか」という思いを忘れることはできなかった。そうして「人は悲しい」という地平から発想をしないすべてのものに反感を覚えるようになった。
わたしは大学で会う仲間や講義をする教官の一人一人の顔を、この人は「人は悲しい」ということを本当にわかっているのだろうか、それともそんなことは考えたこともないのだろうかと思いながら眺めるようになった。だが、眺めたからといって、人が心の奥で考えていることが分かろうはずはない。はずはないのだが、わたしにはどうしても「人は悲しい」ということが誰一人分かっているようには思えなかった。実際、自分でさえよく分かっていなかったのだと思う。今にして思えば、「人は悲しい」という言葉の中に、わたしはただ、「自分が悲しい」という響きだけを聞き取っていたような気がする。そしてその響きは、学生生活の間中、遠い耳鳴りのようにわたしのまわりにつきまとった。わたしはその遠い響きを聞きながら、大学に通って学問に精を出し、友人と語らい、人生如何に行くべきかを論じ、時に幾人かの女子学生に思いを寄せ、それでも、どうにか知的抽象的な言葉は操れるようになって、大学を卒業した。
だが、どれほど新しい経験や思想が、また知識や理知が自分の身につこうと、わたしの中の「悲しみ」はいよいよわたしを去らなかった。それはわたしが大学を卒業して、その遠い土地にとどまっても(母や姉には申し訳なかったが、わたしは自分の昔を思い出させるような場所に決して戻りたくなかったのだ)、その土地で職を得、結婚をし、家庭を築いても、わたしの「悲しみ」はわたしから去らなかった。
あの決して楽しかったとはいえない少年の頃、わたしはこんな悲しみはもう二度としたくない、あるいは、こんな悲しみは誰にも味わわせたくないと、心から願った。だが、「悲しみ」の場所から遠く離れていても、「悲しみ」がわたしを離れることはなかった。それだけではない。いつの間にかわたしは、まわりの人たちを、わたしと同じ「悲しみ」を知っているかどうかで、それも「悲しみ」を生き方の根本に関わるものとして理解しているかどうかで、判断するようになった。だから、その「悲しみ」を知らないと判断した人間は、わたしとは別な人間であり、お互いがこれ以上深く理解しあうことは望めもしないのだと考えていた。その考えが正当さを欠いていることは、わたしもよく分かっている。
この世に悲しみを知らない人間などというものはなく、しかも、人は多かれ少なかれ、それを心に隠すものだから、人の悲しみは、外見から計り知ることができないのだ。わたしだとて心の奥に努めて隠していたのではなかったか。心の奥の奥に仕舞いこみながら、誰かにそれを打ち明けたい、誰かにそれを気づいてもらいたいと、願っていたのではなかったか。残念ながら、学生時代に、わたしの「悲しみ」に気づいて、それを取り去ってくれるような人物には出会わなかった。いや、もともとそのような人物がいると考えることのほうが間違っていたのかもしれない。なぜなら、悲しいという気持ちは、たとえお互いに同じであっても、悲しみの中味は人それぞれ別だからだ。
わたしはその中味の一致までも相手に要求していたのである。別々の場所に生まれたもの同士が、同じ境遇に育って、同じ心を形作り、あるときこの世の同じ地点に出会って、たがいの心を完全に理解し励ましあう。そんな都合のいいことのあるはずがない。そう考えたとき、わたしはわたしの「悲しみ」が理解されるのを諦めた。
わたしは次の手段として、この「悲しみ」を忘れようとした。この「悲しみ」さえ忘れられれば、新しい人生に踏み出せるのではないか。白紙に戻した心で、憂いのない、溌剌(はつらつ)たる生活を送れるのではないか。
だが、これもだめだった。「悲しみ」はもはや、わたしの存在の一部になっていた。仮にわたしが「悲しみ」を忘れて、学生時代の友人の中に入って行ったとして、わたしは彼らの育ちのよさや、知性や、屈託のなさに引け目を感じることしかできなかったに違いない。
あの解放されつつも重苦しかった学生の日々、わたしは彼らに対抗する手段として、彼らの前に我が「悲しみ」を対置して、かろうじて自分の精神の安定を保っていた。
自分は彼らと同じではない。彼らは本当の悲しみを分かっていない。自分は、この世に隠されている本当の悲しみを知っている。だからこそ自分は価値のある人間なのだ。そう考えていた。その考えが正しいかどうかは問題ではなかった。そう考えることによって、わたしは生きる不安を切り抜けてきたのである。それゆえ皮肉なことに、悲しみはわたしの存在の大きな部分を占めており、もしそれを失くせば、わたしは自分自身をも失ってしまうだろう。ならば、わたしはいったいどうしたらよいと言うのか。解決する手立ての見つからないまま、「悲しみ」は、毎日とまではいかなかったが、三、四ヶ月の周期を伴い、わたしの前に現れては、わたしを苦しめた。
二十年ほどが過ぎた頃のことである。わたしにふと思い当たることがあった。
『悲しみがわたしを去らないのは、わたしがただ悲しみから逃れようとしているだけだからではないのか』と。
これまでのわたしは、誰かがどこからかやって来て、わたしの悲しみを取り去ってくれることばかりに気を取られ、正面から「悲しみ」の正体を見きわめるという努力を怠って来た。だが二十年を過ぎた今なら、少年の頃には分からなかった悲しみの正体も、あるいは想像がつくかもしれない。その正体さえ分かれば、施すべき手立てが見つかるかもしれないのだ。そう気づくと、わたしはある年の夏、帰省した実家には内緒で、少年時代を過した村へと車を飛ばした。少年だったかつてのわたしに会いに出かけたのである。
わたしは速度をゆるめた車の運転席から村を眺めた。だが、驚いたことに、かつてわたしの暮らした村は、もはやそこにはなかった。
作品名:後ろ姿の少年に7 【後ろ姿の少年に】 作家名:折口学