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貝殻

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 考えだけじゃ経路は突き進まず成り立たない脳内でしか、形を成してない、思考は外部からは決して視えないし、形として捉え判断周囲は、してくれない、できない。そこで外形のある、話術・発声の遣り取りを僕はいつも女性に対し、非常に切なく、懇願的に熱意を高め希望してきた、つもりだった。少なくとも外形上は・・。
そんなこんなの生き方を選んだ、僕がバカだった。そう、バカなんだ・・。
 そうすることに寄って、デメリットしか生めないことは結局、いまにして気付いた。この冬の日曜の午前の朝方に・・。
 「そこ。わかってるよ。やり方を再考せねば・・。仕事上も何もかも。」こんな刹那の中でもわたしは葉子のことを集中で考えて居たわけでもない。いろんなシガラミの最中、わたしは仕事を優先することにした。そう、この再考についてだけどね。一点に集約する事は決して楽な行動とは謂えぬ。そう、ぼやいて、わたしは仕事の優越性を一頃、入社時に考え巡らせた程度に熱意を持たねば、と肝に銘じ直した。おわりの始まりはいつもこうなんだ・・。こんな感じ、敢闘精神の果て、行き着く、先端のひどい結果。つらいねぇ。とわたしは又ぼやく。少し仕事のことに時間経過と内容を情熱の考えで費やしたあと、わたしはつぎにふと、葉子のことを考える時間を短時間だが、得た。そう。
 あのとき、葉子が謂った台詞だ。そう、金曜の晩、ふたりで食事をし、店をでた直後のあの台詞。「持たれぱなしの人生も・・。」と謂う。気に成ったんで、再考してみる。それは例えば、こうだ。積極的にイコール、アグレッシブ?そうではない。アグレッシブイコール排他的なんだ。非常に。日本語である積極とはまわりに与える影響・雰囲気さへも考慮する行為に英語と違い受けるイメージの差異をわたしは気付く。感じる・・。葉子のアグレッシブや積極とは真逆の台詞はこのどっちの言語の反対意語なんだろう・・。不思議、こう謂った事を考えるなんて・・。
そう思いながらもわたしは持たれっぱなしと謂う人生観につき、やってみたくもあるが程度次第だがお断りの感も否めない生き方であるとこの再考の最中、思った。楽観視はよくない何事も。そう考えわたしはいままでの葉子との絡みについて反芻してみた。それはいつ時のコト細かな点にまで及び、そこには非具体的な抽象的振り返りも含まれて居た。そして、わたしは又、そこから途方に暮れた。
 成果を期待し過ぎては居ないだろか。そんな事を葉子自身もわたしに対する時節、感じ始めて居たろう。そう2人の初期時代から。そうすると、いつもそうであるかのように期待の量と裏腹に関係は、人間、マンネリ的化する。
 そう、そこよ。マンネリとは遅滞なんだろ?そういつでも遅滞は思考細部まで及ぶ、そして不純物の介入を招く。きっとわたしのみならず葉子もそうであった様に。葉子も本当の処、わたし以外の男性と関わる機会は得、損な役回りをわたしの前で幾度かしたに違いない。実はわたしもそうであった。そして、葉子との径路の中、ふたりはお互いに中性的な捉え方で相手を見つめる素振りに労を費やした物だった。そして、それは突然の拍子に崩れた。脆くも。それは嬉しい結果で、在ったが。ふたりはとても真摯に向き合った。結局、まわりからどう思われ、不埒とみられているとしても、ふたりの内面の向き合いは真面目その物で在った。そこに意外な伸展をモタラす、急転直下の事象が舞い降りてきた。そう、それは職場の配置転向だった。
そしてふたりは同じチームの一員とされ、ペアで仕事を請け負う責任組と成った。それまで意外な遠い関係だった葉子とはこの契機に近い構築を築きたく覚え接近止む無しとなったのは僕自身も、葉子自身も同様であったろうと、わたしは確信を抱いている。心の関係で、ある、それは。
そうしてやがて半年が過ぎる頃、夏であったろうか葉子の他人にはない一面にわたしは気付いた。
「葉子の排他的・主導性はいつごろから身に付けて覚えたのだろう。頃合の歳である女はいつも猟奇性のあるところで、ある。しかし、葉子のはちと違う。働きながらの主導を発揮ではなく、結果への自分の手での排他、主導性だ。めづらしい女性だな、とそのとき観念したように葉子には接し、配慮を怠るな。」とその当時のわたしは考え、葉子にそういう態度で行動に出だしたことをいまも憶えている。そんな中社の、上司である間抜氏に良くふたりのサポートをして貰って居たモンだ、と振り返れる。いつもこうだった。上司と部下の位置付けというモノは。気にしてる様で気にしてない。気にされている様で気にされてない。そんな関係だ、わたしの社に本心で願っているのは。詩的な調子に日々をお決まりに過ごしながら達観的に仕事外の展望を考え出したのもこの頃だった。
危険含みの太古からの世間の中、わたしはいつの時代でも通用するとおもう、手法でこの展望を考えたかった。そして、そうした。例えば、女性と男との営みの中でいままで存在した、恋は果たして本当に楽なお手軽な動物本能的な感覚で、行え行われて来たのだろう。そう前提を踏みこの事は処理する。そして、つぎ。人間つながりで一番楽なカテゴリーは一体なんだ?はて・・。友情?否、親子だ。そうその夏と記憶してある、時期葉子へのアチーブメントをどうにか保ちたく、わたしは一応2名以上の団体と呼ぶ、種の、ことにつき一応、思考を当て嵌めた自分を虚に曖昧にいまでもときどき、そう、休日の本日の日曜の朝みたいなとき、迷子の親を求め探すかの様に見出し、思い出す。そんなこんなでその当時夏、わたしとわたしの周囲は余裕振って、目まぐるしく回転していた、それは本当に稚拙な表現で謂うと打寄せる波のタイミングの早さだった。そして、わたしは謂った。よし今度こそ本物だ、と。よく謂えばマンネリの型と形式を取り入れ、悪く謂えばレアな型で、わたしは生活の一部を自然、仕事・人間関係の両面でサポートした。それが全てではなく、ほんの一部の事象への配慮・サポートでは在ったが。形のある物は怖い物だ、この時真摯でなければ今頃どうなっているか、予測不能なわたしでその当時在った。だが、いまのわたしがその当時形成されているとしたらきっと予測可能であったに違い無いと、思う。そう時は戻せないんだ。ときには戻してみたくなる意志を持ちたくはなるが決して叶うことはないとすぐ諦めの付く思い・・。ただし、そんなことをせずに済む関係をわたしの全ては夏〜秋に執り行なえて経過していく自分が居、その中、わたしは漲る展望の明に喜びを不安なく、発見していたに違いなかった。
きっと、そう。そこは当たってる。自分にそう言い聞かせ、わたしは、ふたりのこの後を思いやった。そして、途方に暮れる事に成る。
なんでだろ?とふいに疑問が首をもたげた。そして、そのとき頭を過ったのは、厭くまでも葉子は自分であるという事。葉子は葉子なんだ・・・。
それはそれで自分としては満足で充足してる。しかし、こんな事って・・。在りなのか?葉子はわたしをどう思い詰めて居る?思い詰めは思い付きとは違う。能動であり、宙に浮かび・宙から授かる物ではない。そこはそう。発想転換が必要だ。決して、他人は自分をこう想っててほしい通りには想ってはくれない、ことがある。
作品名:貝殻 作家名:ぴろ色