貝殻
おっと、こうしてはいられない。目玉焼きが焦げちゃう。こんなことに目の前を占有されながらもわたしはそのニュースの内容が気掛かりだった。朝食をつくり終えたわたしは、そのニュースが気に成り、食事は食べながら、そのニュースをやってる別のチャンネルに替えてみた。
「死傷者数は現在少なくとも、12人以上。大きく、脱線した車両が線路脇に横たわり・・また・・車内に残されている・・・。」
ふいにこのニュースに関し、わたしは行動を取り出した。否、取ったのでは無い。反射的に考えと体の両方がなにかしら反応し、とある、本のページをめくり出した。それは過去の鉄道事故の記事のスクラップだった。以前大学時代よりこういった関連の作業を黙々と続けてきたわたしであった。なぜか聞き逃しそうな、この事故が当たらねば良いが、胸騒ぎというか体と頭脳を意識レベルを超え、動き出したかの様に、巨大な不安として圧し掛かって来たのであった。それはほんの数秒の反射的動作であったが、事故の真実を知るには十分な素材で、行動にでたのは反射的にしては意味があり、正解だった。「これは犠牲の影響を受けたシステムやひと・設備の不備が原因ではない。過去の事例に照らし、そう思う。犠牲は本当のところ、人為的な簡易な盲点的箇所からの原因で、どう足掻いてもつくり出すシステムでは補えないフォロー出来ないカテゴリーの不可避な運が作用、運だけが、運のみが司る、どうしても数百事例の中に誕生する人知で補え得ない架空の世界のレンジからのダメージなんだ。その現場や報道を知る我々が主体者と成る、運が能動者であり、決して・・・。」
その関係者のことを思いやると居た堪れない気持ちになり、そこで朝食中ということも在り、わたしは悲しげにテレビを切った。
葉子はこの事故に関し、どう思うのだろう?急にわたしはいますぐにでも葉子に対面して聞きたくなってきた。どうしてだろう?こんな気持ちになるのって。葉子は高卒で教養の面では遠くわたしには及ばない。だが、心を共有する権利はあるはづだ。実社会の軋轢の中わたしより上から押さえ込まれる経験の時間を長く過ごした葉子の方が、わたしより達観なのではないだろうか?だが、それは葉子以外にも女性に限定しても沢山居る。それなのに葉子に意見を聞きたいのは好意の意思以前に、もっと違った意図をもって聞きたがっていた。
そう。好意的な女性だからその女性をもっと知りたく、尋ねてみたくなったのではなく、葉子に特別ななにかを昨夜以来、感じたからであったと思う。この聴聞の意志はなにかのきっかけかも知れない。好意とは真逆の自分がもってない、葉子が優越している、才能の隠れた素質から教えを請いたくての。それは秘かな隠れた、葉子の最近の角度が異常な表現の現われへの嫉妬心かも知れない、とわたしは佇まいを正し、危惧した。決してこの嫉妬をもし本当にそうなら悟られてはいけない。簡単に処理しようとした行為が思わぬ影響を周囲にそして最終自分に与えて来るケースは多々あるのだ。いろんな影響があると思う。その影響に寄り少なくともひとは才能を開花させてきたのも歴史が物語っている。そう、ここでも運だ。運が才能の開花に影響を与え、才能の数値を上げ、できることの量や数をそのひとに増やし与える。それってずるくないだろうかね?努力とは無縁の偶然ともいえる事象で、努力家たちの積み重ねを一気に抜き去るなんて。だが運さへ自分の意思で左右させる事ができたら・・。急に空々しく成った。運とは他の才能へ影響を与えやすいが恣意的には確かに使用しにくいが多種あるとされる才能の1つではないだろうか。そう考えると空しくて、なにもかも放置してみたくもなる。便利な才能ではあるが、そこはそこ、捉われ過ぎると緩やかなカーブで昇り調子に人生を描き終えれないのではないだろうか。生き急ぎという言葉があるが運を左右させ酷使するという生き方は当にありえないほどの生き急ぎなのでは?早く死ぬという理屈ではない。生から死までの間にその初期で大半のエネルギーとやりたいことを終わらし、あとには後半戦には何も残して置けず、ただ、ひたすら苦悩で怠惰ではあるが無為な優越感、つまり絶対的達観?早熟とはそういうことで発生しこういう生き方でトータル的には損をし得物は通常よりむしろ少ない人生を送る、ひとからはうらやまれあこがれられるかもではあるが、本人自身は最初からわからなかっただけであってゴールしてみると損な生き方をしたと誰にも漏らさずに才能人の称号をもらいつつ簡単の生き方をした、ひとを隠れてこそこそと羨みながら、楽な人生だった感を演じ、装いながら運の使用を誤ったと内心後悔しながら、過ごしてる種類のひとの存在がなんとなくあるような気がしてならない。