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貝殻

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と、話は続いて居た。
それを紳士的に聞き逃し、相槌を打ちながら、Kとわたしは階上へあがった。そして、別の情熱を生む必要があった。そう、仕事への飽くなき、感謝の情熱を。葉子との昨日のやりとりは触れないでおこう。そうすることが、新鮮さを失くさずに済む、ことだってあるんだ・・。そう言い聞かせ、だれにも語らない、語れない真意はわたしの側からは、伏せられそうだった。しかし、葉子の側はどうだろう?とわたしはどうでもいいが、考えた。終わりの予感が前触れもなくわたしの脳裏を襲った。それは固唾を呑んでわたしを待っていた。襲うことを。ある種の人間が持つ、危機感ではない。焦燥がなぜかわたしを掴んで離さなくなっている。昨日以前からもずっと。しかし、今回の予感の危惧は量が多かった。具体的にどういう質のものかはうまく表現出来ないが。
 終わりを告げたのは、こういう経緯だった。そう、全ての終わりへ・・。深意のない、ある想い出。わたしの中にある、学生時代の。それを想い出すことが多くなったのが、この敗因だったのかもしれない。とかく謂われる種の時代、わたしは部活に打ち込んで居た。そして、恋愛も経験せず邁進していた。真摯さを身に付けるという考えに・・。成就することもない考えに。やがて、大人になったわたしは色んなことを覚え、学んだ。世間の大人しさも薄々、知った。子供がそれらを知るに連れ、逆に卑怯なモノと思えるようになってきたのもこのころだ。
 そんな考えの蓄積に果てに、終わりは訪れるんだろうか。そうして、ヒトは諦めていく・・。老後へと・・・。わたしも例外ではない。自前の思考で判断しながら、いやそうするしかなかったんだ。が、老後への肉体、思考の遠慮性を喜んで迎える日々の到来を待ち望むわたしを子供の拙さを想い出とからめ、再確認しながら、終わりの予感である、終末にその形への期待を胸に早く来ることを願って止まないわたしでも在った。会話のない考えだけの状況に取り憑かれながらわたしの、青春は進んだ。そして偏屈さをその傍らの一部で産み落としてしまった。で、子供のアクドサを他意はないにせよ気付く。子供は背徳感のない、害を生む、それも大量に。そして、害意がないだけに注意しづらく、やっかいである、と。ただ、できないことも反面多い。それは行動種ではなくて、自発性が発揮できない、いつまで経っても子供は親の子ってわけだ。若年のころ、特に包み込まれる必要があり、それに親も子も期待して生活を送り自滅する、そう子離れだ。それは必然だろうか?と、考える。必要性はあるが、万人の理屈ではない。自主性を縛って今は保護必要とする家族がある以上、行動の概念は子供時代にはすくなくとも狭まる。そんなことに大人になると自分の理屈と理由で、相手を納得させ、自主を発揮、変化に富んだやり方を経験でき、返ってアクドサがなくなるのかも知れない。なんて、ご都合的な考えを持つわたしでも在った。しかし、最後の予感への繋がりは、このとき確かに起こっていた、すでに。そして、それは不幸な劇ではないようにこのとき不思議に、その予感を思えたものだった。子供時代だったら逆に、そのアクドサを盾に回避可能だったかもしれない、結末、それはもう得たくない、性向物だけにこのわたしには部外のシロモノで在った。



                 客観的の有意義性

さてここから本題だ。そういうことって・・好い加減。肉体と精神の破壊に繋がる事態は保護下に居る、子供にとり存在しない。これは謂える。でも、そこから必然性はむづかい議論なしでも親の匙加減だと、おもう。何事も過度に成らなければいいのさ・・。
 そして、そう、わたしも実際そうだったんだし、そういう扱いで過ごさされて来た。なにも強要できない。こういうときって・・・。
昨夜のことも有るが、葉子とはもうこれっきり、アコギな付き合い方はしたくないもんだ・・。そうしてふたりを淵へ追いやる・・追いやってもいいが、選択を窮地の背水の陣のごとく焦って、判断ミスしなければいい。そう、おもうんだ・・。
 そんなこんなの展開を両者は望んでもらいたいなんて、葉子はおもって、昨夜を許容したのかもしれない。選択ミスの無い、淵へ追い込まれを期待して。昨日の台詞だってそうだ・・。ちっともセンチメンタルじゃない・・って、いったい。あらゆるジレンマから開放を待つふたりでも在りたい反面、矛盾込みの人生を待つふたりであった、と思えるお互いに成りたい。そう、願う課増で、あった。
それより、待ち望むのは冴場恭子の様な、強固な固定観念の打破であり、それは必要な高い才能がほしい。観念を固定で在れ、融通のそれであれ打破するのはやはり、感受性とは逆のクールさ?つまり、できることの量と数の両面の指標高さだとわたしは、考えている。
 しかし、それはオイソレと身に付かない。子供のころの恵まれた環境、つまり英才教育が必要だ。いまからでも遅くはない。そうして、葉子を自分の思い通りに・・。葉子自身を融通性で表面、豊かな、内面静かな余裕のある人生を、人知れず送ってほしいと、いつも切に願っていた。それがせめてもの葉子へのわたしからの好意であった。それだけでもわたしサイドからは果たせればいいと思っていた。しかし、最近の葉子は充実と謂うか、欠落してる点がいつも漂い、欠点をうまい具合に本人自身で利用してる感が否めない。それが非常に邪魔だ。融通性身に付けに。そして、客観を真にあらゆるサイドの事象において、発揮できたととき、わたしを葉子は全て越え、あらゆる有効者と成ろうなにに、対しても・・。それで、自分は満足だ。たった、ひとりだけの幸せを願っていると謂うのでは無い。余裕性は、活路を開いた本人と、それを見抜いてる側の者にも恩恵を与える。
 おっと、こんな時間だ。それを忘れていたようだ。仕事に熱中するあまり。Kが不可思議に話し掛けて来る。
「おい、そんなことじゃだめじゃん。もっと、こう・・メリハリだ。そうじゃない。あー。まただ・・。」
「ごめん、ここはどうするんだ?」
「そこは、こう・・、もっとイメージを膨らませて・・そうそう。いいね、こんなもんで挙げるか?上に・・。ん??納得?いいだろ・・。」
わたしは疾走した。会社の表舞台への階段の昇段のために。ここ最近ヒラスラ。
Kはいい奴だ。協調性が高い。しかし、面倒見がいいなぁとも思える。少々お節介なベクトル含みの強さだが・・。果たせばいいのさ。
何事も。結果はそれしかない。結果=果たすまでの経過ではない、結果とは果たせた結論なんだ。やっぱり、こうだ。やってて良かった。仕事を。
作品名:貝殻 作家名:ぴろ色