「愛されたい」 第四章 研修旅行と淑子の嫉妬
「はい、子供たちにはその方がいいだろうって考えたようです。戻ってくるようにとはお願いしていますが、返事はありません」
「そうだったの・・・知らなかった」
「文子さん、お話って何か聞いてもよろしいですか?」
「ええ、もちろんよ。私ね、春の研修旅行の幹事を横井課長からしろって言われているの。どこにしようかなかなかまとまらなくて、あなたにも一緒に考えて欲しいと思ったの」
「研修旅行ですか?今年は春にするのですね」
「そうなのよ。秋はね食品の見本市が開かれる年だから忙しくて無理なんだって。この会社の親会社はね、有名なビールのメーカーなのよ。知っていた?」
「見本市ですか・・・そんなのあるんですね。親会社のことは初めて知りました。それで参加するんですね」
「そうよ、レトルト部門でいくつか出すの。夏ぐらいから新製品の試作に追われるのよ。あなた新人だから、多分そこに配属されるわよ。恒例だから」
「何故新人がですか?」
「言わないで置くわ。課長に怒られるから。じゃあ明日お願いね」
「解りました。失礼します」
文子の言った「新人がやらされる」事に智子の災難が降りかかることになる。
次の日仕事を終えた智子と文子は近くの喫茶店で研修旅行の話を始めた。
「文子さん、お聞きしていいですか?」
「ええ、なに?」
「どうして社員の方が企画されないのですか?」
「前はそうしていたんだけど、旅行の殆どは私たちパート社員だから、希望を尊重したいって今の課長がいい初めて、こうなったの。去年の下呂も私だったのよ」
「パートの私たちが希望する場所に連れて行って頂けるって言う訳ですね。いいですね」
「男性が行きたいところじゃないだけでも助かるわね。変な温泉場じゃつまらないものね女性としては」
「はい、ところで行き先決められているのですか?」
「それがね、桜を見たいって課長が言うものだから時期と場所が難しいのよ。あなた知ってる?」
「桜ですか・・・京都はどうですか?」
「それも考えたのよね。でも温泉がないから」
「温泉ですか?鞍馬とかじゃダメですか?」
「40人となるとなかなか泊まれなくてね」
「そうでしたね。大人数ですものね・・・伊勢はどうですか?海の幸も美味しいし、長く伊勢神宮にも参ってませんし」
「お伊勢さんか・・・皆さんの年齢考えるといいかも知れないね。ちょっと当って見るわ。ありがとう」
「いいえ、私もお手伝いしますから何でも話してください」
「そうさせてもらうと助かるわ。今度一緒に旅行代理店に行きましょう」
「解りました」
今年の研修旅行は伊勢と決まった。桜が咲き始めた三月の終わりに名古屋フーズの一行を乗せた観光バスは、会社の駐車場を伊勢神宮に向けて出発した。
幹事の文子は一番前の席に座っていた。隣はもちろん智子だった。通路の反対側にただ一人の男性横井とそれを狙ったかのように淑子が座っていた。
バスは東名阪自動車道から伊勢自動車道に入り芸濃(げいのう)サービスエリアで休憩を取った。
「文子さん、コーヒー買って来ましょうか?私も飲みたいので」
「いいの?じゃあブラックでお願い。これお金・・・」
「いいです。私が出しておきますので」
トイレを済ませてから智子は売店入り口にある自販機に向かった。前の人が取り出そうとしていたタイミングだったので、入れ替わって硬貨を入れた。後ろから横井課長が、
「おや、楠本さんじゃないですか。下呂の時と同じタイミングですね。こりゃ偶然じゃないぞ、ハハハ・・・」
と声を掛けた。
「課長!ビックリしました。なんだか思い出しました」
「覚えてくれていたんだね。誰も聞いていないから言うけど、あの時からあなたのことずっと気になっていたんですよ。今日はご一緒出来て嬉しいです。誰にも言わないで下さいね」
「そんな事言われても・・・困りますわ。誰にも言える訳無いじゃないですか」
「ゴメン、怒らせちゃったかな・・・忘れてください。すみませんでした」
横井は頭をちょっと下げた。
「課長、謝らないで下さい。私も・・・」そう言い掛けてやめた。目線の先に淑子の姿が入ったからだ。
「じゃあお先に」とだけ言って、智子はバスに戻って行った。途中で淑子に少し頭を下げて挨拶をして通り過ぎた。しばらくして横井は淑子と一緒にコーヒーを手に持ちながら、席に乗り込んできた。
「皆さん!お揃いですか?・・・じゃあ出発します」文子の点呼が済んでバスは再び走り出した。何事も無かったように文子と話し始めた智子の顔を淑子はじっと見ていた。横井はコーヒーを飲みながら時折視線を智子の方に注ぐ。その様子を淑子は見逃さなかった。心の中で、「横井は智子を意識している」そう感じた。薄っすらとではあったが、智子に対する嫉妬が出始めていた。
「こんな若い小娘に負けてなんかいられない。大人の女を見せて横井課長は自分のものにする」淑子の妄想に近い思いは初めて強い行動に出てゆく。
伊勢神宮の内宮を参拝して、バスは宿泊先の旅館に到着した。英虞湾(あごわん)の中ほどに位置する宿は広い庭園と大きな露天風呂を有する近代的な佇まいの人気の宿だった。ロビーに入った一行からは、素敵な旅館ね、と声が聞かれた。若い女将の到着を迎える挨拶を受けて、それぞれに指定された部屋に入っていった。「夕食は大広間で6時から始めますので、遅れないように集まってください」文子はそれぞれに声を掛けて確認をした。一番最後に智子と二人で、女将に挨拶をしてから自分たちの部屋に向かった。
4人ずつの部屋割りであったが横井は男性なので一人で部屋を使っていた。39人の参加だったので、文子は智子と二人部屋にした。幹事ということもあって、そうしてもらえた。部屋に入って、横井に電話をした。
「課長、文子です。今日はお疲れ様でした。食事のときにご挨拶されますよね?乾杯は誰にしてもらいましょう?」
「そうだな・・・君の次にベテランと言えば誰になるのかな」
「淑子さんかしら」
「じゃあ、淑子さんにやってもらおう。頼んでおいて」
「はい、そうします。あと、食事が済んで皆さんどうされますかね?カラオケとかしたかったら予約しておかないと唄えないと思うんですが」
「広間でかい?」
「そうですが」
「みんなそんなところで唄うのかなあ。カラオケルームは無いのかな?」
「ありますが20人も入ったら満席でしょうから」
「そうか・・・じゃあ有志だけで行こうよ。食事の後にそう呼びかけたらいいじゃないか」
「はい、ではそうします。課長は来られますよね?」
「人数次第だね。満席ならおれは遠慮するよ」
「嫌いなんですか?」
「違うよ。皆さんが楽しんで頂くためだよ」
「ほんとうにですか?音痴なんじゃないですか」
「酷いなあ・・・じゃあ今度一緒に行こうか?」
「二人でですか?」
「そう来るか・・・それでもいいよおれは」
「本気にしますよ!まあ誰かさんに恨まれそうだから止めておきます」
「誰かさんって・・・誰の事言ってるの?」
「ご自分で考えられたら、フフフ・・・じゃあ後ほど」
隣で聞いていて気になる会話だと智子は思った。
電話を切った文子に智子は尋ねた。
「ねえ、今言われた誰かに恨まれるって、どなたのことなんですか?」
作品名:「愛されたい」 第四章 研修旅行と淑子の嫉妬 作家名:てっしゅう