訴えかける老人
やがて、なにか風の音が聞こえてきました。
自分の立ち位置が、流動している。それを随時認識させられる。
ただそれだけで苦痛でした。
次に、柔らかな川のせせらぎが、耳に流れ込んできました。
物理的に不可能な速度で場所を移動したのか。
それとも、私が移動した後に、その記憶だけが消えたのか。
いや、そのような過程や、原理等はもはやどうだっていい。
私の常識の一部が崩れ去り、法則が通用しなくなってしまった。
その結果と事実だけで十分でした。
そして、また音がしなくなりました。
私は、顔を覆っていた手を退けようとしました。
私の手は予想よりもずっと重く、指の間に隙間を作るので精一杯でした。
なにかを叫びました。叫ぼうとしました。
しかし、それはできませんでした。
指の隙間から、一個の生物を確認できました。
そして、それ以外何も、地面も空も、建物も、何も存在していませんでした。
下を見ても私の肉体はなく、私にはわけがわかりませんでした。
その時、目の前の生物は言いました。
「そこにあるのはおそろしいもの。どうしておそろしい」
「そこに、もの、して、ろしい」
何もない空間で、生物の声は何重にも木霊していました。
「それは恐いと感じるからだ」
「恐いと感じると、不安になるからだ」
「不安になると、周りのものが恐くなるからだ」
「今のおまえは連鎖している」
「いや、連鎖をしすぎて、おまえは破綻してしまった」
「破綻するとどうなってしまうのか、それは誰も知らない」
「しかし、おまえだけは知ってしまった。」
「助かりたいか。助かりたいか」
私は、精一杯、助かりたいと願いました。息を全て吐いた後に、それ以上吐こうとするかのようでした。