傀儡師紫苑アナザー
愁斗は海龍の復活を妨げることに協力しようと考えたが、その玉の場所は教えられていない。となると、真珠姫を討つのがいいだろう。真珠姫たちはまた愁斗を狙って来る。愁斗にとって真珠姫はすでに排除すべき存在なのだ。
龍封玉の存在はわかったが、それとは別の疑問が残った。
「なぜ真珠姫は海男を呼んだんですか?」
「おそらく海男が私の子と知って、人質に取る気だったのではないでしょうか」
「なるほど」
「そのことでひとつお願いがあります」
「なんですか?」
「魚人種は人魚種と違い、陸上でも活動することが可能です。昨日、唄を使って海男を呼び寄せたのは、海男の姿や場所がわからなかったためにおびき寄せる方法を取ったのだと思います。ですけれど、今になっては陸地で海男の場所をつき止めるのも時間の問題です」
「海男を守ればいいんですね?」
「はい、よろしくお願いいたします」
瑠璃は深く頭[コウベ]を垂れた。
そして、瑠璃が頭を上げたときには、すでに愁斗の姿は遠く向こうを歩いていたのだった。
伸彦の家に戻ってくると、海男はいつものように静かに本を読んでいた。
海男は部屋に入ってきた愁斗を一瞥して、鼻を利かせ小声で呟く。
「潮騒の香りがする」
海の近くの村だ。そこら中で潮騒の香りがしても不思議ではない。しかし、海男は続けてこう言った。
「懐かしい香りだ」
「わかるか?」
「んだ、母ちゃんの香りだ」
愁斗は思う。自分は母の香りを覚えているだろうか。思い出されるのは血の香り。
母親の死が強烈なイメージとして、良い思い出を覆い隠してしまう。
炎の熱さと、血の香りと、母の残した最期の笑顔。
全ては過去。
母との思い出は、もう創ることはできない。
愁斗は母のイメージを消し、海男に次げることにした。
「今、君の母に会って、君を守るように頼まれた」
説明不足の会話だったが、それで海男は理解して深く頷いた。人間ではない種族の血が混じっている子だ。直感的に物事を理解してしまうのかもしれない。
愁斗は畳の上の静かに座り、海男は本を読み続けた。
静かに時間だけが過ぎた。
時計の針を見た。
もうすぐ正午になる。
漁師を辞めた伸彦は村の小さな役場に勤めているらしい。
まだ二人っきりの時間は続きそうだ。
本を読んでいる海男は静かな時間を苦としない。愁斗もまた静かな時間を苦としていなかった。
数時間前の真珠姫との戦いで、愁斗は召喚に失敗した。
異形のモノを自在に操ること――それが闇傀儡師の真髄。
まだまだ自分が至らないことを深く反省する。
召喚もできなければ、〈闇〉の支配も完璧ではなく、歯向かう〈闇〉に呑まれかけた。
この世の物体を切る切糸も生身のままでは使えない。これでは半人前以下だ。せめて新しい傀儡を手に入れなければならない。
傀儡は傀儡師の右腕として動き、傀儡を使用することで技の能力も高められる。生身のままでは切れぬモノも、傀儡を操れば切れる。
師である父がいれば……。
なにかの音に気づき、愁斗はふと我に返って辺りを見回した。
雨の音だ。
大きな雨粒がトタン板を叩いている。
唄が聴こえた。
海男が急に立ち上がり、愁斗はやはりと思った。
「君を行かせるわけにはいかない。少し痛いけれど我慢してもらうよ」
愁斗の手が妖糸を放った。
身体を簀巻きにして絡みついた糸で海男は身動きを封じられた。
絶対に外に行かせてはならない。唄を使ってきたということは、まだ海男の居場所が定かではない証拠だ。
愁斗は残る手からも妖糸を放ち、両手の糸で海男を拘束した。
指先に力を込める愁斗の表情に焦りが走る。
海男は人間ではない。
愁斗の指先に妖糸が切れたことが伝わる。
「これ以上は無理か」
次の妖糸を放ってもすぐに切られることはわかっている。自分の力量は心得ている。ならば、今は海男を生かせるしかない。
家の外に出る海男を愁斗はすぐに追った。
海岸沿いの道路をゆらりゆらりと歩く海男の先に、灰色の影が立っていた――魚人だ。
魚人が奇声を上げると、どこからか魚人たちが集まってきた。その数、3匹。真珠姫の姿はない。
唄が聴こえた。
道路を降りた砂浜のほうだ。
真珠姫がいた。
波打ち際から唄を響かせながら砂浜を歩いてくる。それに誘われ海男も砂浜に向かって歩き出す。
無駄な抵抗と知りながら、愁斗の妖糸が海男の身体に巻きついた。先ほどよりも多く巻きつけたが、切られるものは時間の問題。それにすぐそこまで魚人たちが迫っている。愁斗は海男だけに構ってはいられなかった。
愁斗の手から離れた妖糸は、その力を極端に失い強度も落ちる。そのため、海男を簀巻きにしても、その糸の先は愁斗が握っていなくてはならないのだ。
迫る魚人。そこからは3匹の魚人。前方には砂浜を歩いてくる真珠姫。
絶体絶命か!?
唄が聴こえた。
優しく温かい歌声。
海男の動きがピタリと止まった。
いったいなにが?
愁斗は魚人たちが来る道路とは逆方向を振り返った。
美しい裸体の美女がそこには立っていた。
自らの足で唄いながら歩み寄ってくるのは、間違いなく瑠璃の姿だった。
瑠璃は海男が眠るように眼を閉じて、道路に倒れるのを見取り、唄うことをやめた。
「変化の秘薬を手に入れるのに時間がかかりましたが、やっと陸に上がることができました。海男の傍に付いていてくださり、ありがとうございました」
深く頭を垂れる瑠璃には人間の脚がたしかに生えていたのだ。
ハンデがひとつ減り、愁斗の武器がひとつ増えた。
輝線が宙を翔る。
迫ってくる3匹の魚人の首が続けざまに宙に舞う。
首から天に向かって血を吹き出しながら魚人は息絶え倒れた。
愁斗は静かに嗤った。その指先から放たれた妖糸は、海男の躰が操り妖糸を放っていたのだ。
仲間の魚人がやられたのを見て、真珠姫が奇声をあげて襲い掛かってきた。
「小僧の分際で、誇り高い真珠族をまたも許せぬぞ!」
愁斗は妖糸をすぐさま放とうとしたが、それを妨害するように瑠璃が背を向けて立っていた。
「この争いは私たちのものです。真珠姫との戦いは私が……」
瑠璃の手には矛が構えられていた。対する真珠姫は3つ又の槍を持っている。
手出しは無用。
愁斗は戦いを見守ることにした。
雨脚はこの場所で地団駄[ジタンダ]を踏み、過ぎ去る様子を見せなかった。
浜辺に打ち付ける波は大きくうねり、激しい潮騒を響かせる。
瑠璃と真珠姫の戦いは互いに一歩も引かない状況だった。
渾身の力で振るった瑠璃の矛を3つ又の槍が受ける。歯を食いしばった真珠姫の顔が醜く歪む。
愁斗が見る限り、瑠璃の方が少し上手に見える。しかし、その差は微々たるもので、すぐに覆りそうなものだった。
どちらが勝つかはわからない。
瑠璃が負ければ、次に真珠姫と戦うのは愁斗だ。
果たして今の自分に真珠姫と戦うだけの力量はあるか。
瑠璃の血によって腕の傷を治されたとき、心身も浄化された。先ほどまで安静にしていたことも相俟って、今なら〈闇〉が使えそうだった。ならば〈闇〉で真珠姫と戦うか?
作品名:傀儡師紫苑アナザー 作家名:秋月あきら(秋月瑛)