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秋月あきら(秋月瑛)
秋月あきら(秋月瑛)
novelistID. 2039
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傀儡師紫苑アナザー

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 脛まで浸る海水が一瞬、波立つことを止めた。
 魚人の顔に不快の色が浮かぶ。
 奇怪な魔方陣のその先で、〈それ〉が呻き声をあげた。
 〈それ〉の呻き声は空気を振動させ、海水は水しぶきを上げ、洞穴の中で激しく木霊した。
 海水は〈それ〉の唸り声に共鳴し、集合した水の塊が巨大な水魔を作りあがる刹那、水風船が割れるように水魔が弾け飛んだ。
 ――召喚はあと一歩のところで失敗したのだ。
 〈それ〉の叫びが木霊する。
 巨大な毛の生えた触手が空間から出現したのを愁斗と魚人は見た。
 魚人はすでに愁斗など眼に入っていない。
「神か!」
 そこにいるモノがたとえ神だったとしても、慈悲深い神ではないだろう。そこにいるのは荒ぶる神。人智を超えた存在がそこにいた。
 見えているだけで5メートル以上ある触手が、支えを失い水の吹き出るホースのように暴れまわる。
 洞穴の壁がもろくも抉られ、天井の岩が崩落した。
「うぬの命は必ずもらう。待っておれ!」
 魚人は水の中に潜り姿を消してしまった。洞穴の底の抜け道を通って海に逃げ出したに違いない。
 愁斗もすぐに洞穴の奥に駆け出した。
 膝まで浸かる海水のせいで思うように走れない。
 地響きが天井からした。
 落ちてくる岩の破片。
 轟々と洞穴が唸り声をあげ、巨大な岩が天井から崩落してきたではないか!
 一瞬、上を見上げた愁斗はすぐに洞穴から飛び出した。
 崩落した岩が連鎖を生んで洞穴の入り口を塞ぎ、上がった飛沫で辺りは霧に包まれた。
 果たして愁斗は?
 愁斗は浅瀬の上に立っていた。だが、その片腕はだらしなく下に向けられ、赤い筋が腕から伝って指先から海面に滴り落ちていた。
 海水に落ちた血が儚く消える。
 崩落した岩の破片が愁斗に重症を負わせた。しかも、大事な利き腕にだ。敵の追っ手が来る前に逃げなくてはならなかった。
 岩場まで逃げついた愁斗は、そこから浜辺を目指し、道路を目指そうとした。
 だが、背後で気配がしたのだ。
 振り向いた愁斗の眼に入ったものは、陽光を浴びて輝く鱗だった。

「君は僕の敵か?」
 愁斗は鱗を持つ者に尋ねた。
「恐れないでください、私は人間の敵ではありません」
 殺気はないと愁斗は感じていたが、相手が鱗を持つ者である以上、現状では信用できない。
 波打ち際から砂浜に蛇のように這って来たのは人魚というべき存在だった魚の下半身を持ち、上半身は女性の裸体を包み隠さずさらしていた。
 その高貴な顔立ちに埋め込まれた瞳の色は宝玉のように美しく、瑠璃色に輝いていた。
 ――似ている。愁斗は瞬時に思った。
「あなたが海男の母か?」
 しばらくの沈黙の後、人魚は深く頷いた。
「はい、やはり海男をご存知だったのですね」
「やはり?」
「貴方様が真珠姫に襲われているのを見て、海男のことと関係があるのではないかと思ったのです」
「事情の掴めないまま僕は事件に大きく巻き込まれた。できれば、あなたから詳しい事情を聞かせてもらいたい」
「よろしいでしょう。その前に、貴方様の傷を治して差し上げます。こちらに来てください」
 傷とは重症を負った愁斗の腕のことだった。
 人魚は自らも愁斗に近づくが、足のない身体で砂浜を辛そうに動いている。それを見ながらも愁斗は人魚に近づこうとしなかった。
 これは罠か?
 愁斗は警戒していたのだ。
 しかし、人魚の優しい顔つきを見ていると、そこに亡き母の面影を投影させ、警戒心が次第に和らいでいった。
「無理して浜に来なくてもいい」
 愁斗は足早に人魚に近づいた。
 難しい顔をして近づいてくる愁斗に人魚はにっこりと微笑みかけた。
「なにも心配はいりません。お腕を見せてくださいますか?」
 愁斗は思うように動かない腕を、身体を横にして人魚に向けた。
「この程度なら後遺症も残らず治るでしょう」
 そう言って人魚は自らの腕に鋭く尖った犬歯を突き立て、肉を切り裂くように強くかじったのだった。
 なにをするのかと思うと、人魚は腕から口を離し、腕から滴る血を愁斗の傷口に擦り付けた。すると、どうだろう。愁斗の腕の傷は早送りのように傷口が塞がり、細い傷痕を残すまでに治ってしまったのだ。
 人魚伝説はあながち嘘ではないらしい。
 その肉を食ったものは不老長寿、もしくは不死になるという伝説があり、八百比丘尼[ヤオビクニ]という尼僧は、17の時に人魚の肉を食し不老長寿となり、800歳以上生きたとされている。
 傷の塞がった腕を軽く動かすと、多少の違和感が残ってはいるが、妖糸を操れる前に回復していた。ストレッチを繰り返せば、すぐに元通りの動きができるようになりそうだ。
 愁斗の傷を治した人魚は愁斗を別の場所へと誘った。
「もう少し人の来ない場所に行きましょう」
「そうですね」
 人が少ない漁村とはいえ、いつどこで人が現れるかわからない。人魚が見られたら大騒ぎになってしまうだろう。
 二人はひと目を忍んで、岩壁を背にできる浅瀬の岩場に移動した。
「私の名は瑠璃と申します」
「あなたの名前は聞いています。僕の名前は愁斗――秋葉愁斗。伸彦さんの家でお世話になり、伸彦さんとあなたの馴れ初め、あなたが歌うと天候が崩れるという話を聞きました」
「他にはなにかお聞きになりましたか?」
「昨日の嵐の中で歌が聴こえました。それに導かれるように出て行った海男を追って行ったところで真珠姫に会いました。海男を助けることはできましたが、真珠姫は逃がしました。てっきり僕はあなたが海男を呼んでいたのだと思っていました」
 そして、ここ最近、海男が唄を口ずさむようになったと伸彦は話した。唄を歌っている自覚は本人にはなく、同じ唄を歌おうとしても意識しては無理だったらしい。そのメロディーというのが、瑠璃が唄っていた鼻歌によく似ていたのだという。
 瑠璃は申し訳なさそうな顔で愁斗の眼を見つめた。
「無関係の貴方様を巻き込んでしまいましたね」
「後戻りはできません。僕はすでに真珠姫に命を狙われました」
「そうですね、全てお話いたしますのでお聞きください」
 海男が5つのとき、瑠璃は海に帰った。理由は瑠璃の一族と真珠姫の一族間で問題が起きたからだ。
 瑠璃が陸に上がった理由も一族間の問題であった。
 瑠璃族に伝わる秘法をめぐり、真珠族が争いを起こしたのが全ての火種。秘法の力を使い、人間を支配しようと真珠族はたくらんだ。それを知った瑠璃族の姫 ――瑠璃姫は秘法を持って陸に上がったのだ。
 陸に上がった瑠璃であったが、真珠族はそのことを知らぬまま一族間の争いは激化し、瑠璃族は一方的に押されていた。そのことを知った瑠璃は瑠璃族を助けるために海に帰ったのだ。
「秘法はどこに?」
 尋ねる愁斗に瑠璃は首を横に振った。
「それはお教えできません」
「では秘法とはなんですか?」
「龍封玉――古の時代、私達のご先祖様が海を荒らす海龍を封じ込めた玉です」
「なるほど……」
 その玉に封じ込めた龍を復活させるのが、真珠姫たちのおおむねの目的だろう。