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秋月あきら(秋月瑛)
秋月あきら(秋月瑛)
novelistID. 2039
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傀儡師紫苑アナザー

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「10年以上前、俺は漁師をやっていた。そうだな、今日みたいな嵐の日だったんだ――」
 その日の天候は小雨。普段ならば海などには絶対に出ない。浅瀬は波が低くても、小雨とはいえ沖に出ると波は高く、海は荒れている。それに風も強く、漁師の勘が嵐を予感していた。
 それにも関わらず、伸彦はその日、海に出てしまったのだ。今思えばなにかに操られていたようにも思える。
 身寄りのない伸彦を止めるものは居らず、仲間の漁師達も伸彦が海に出たことをあとになって気づいた。
 沖はやはり荒れていた。
 曇天色をした海。
 波が普段よりも高く、船が大きく揺られた。
 唄が聴こえた。
 このときやっと伸彦は自分のしている過ちに気づいたのだ。
 急いで船を引き返そうとしたがもう遅かった。
 雷鳴が轟き、天から大粒の雨が降ってきた。
 波が荒れ狂い、大きく揺れる船の上で、伸彦は必死になって帆柱に抱きついた。
 聴いてはいけない唄。
 海に棲む美しい魔物の伝説。
 魔物の唄は嵐を呼び、船を沈める
 どんなに泳ぎの上手い者でも、嵐の海に飛び込めば命の保障などない。荒波に揉まれ海の藻屑と化す。遺体すら発見されずに海の底で眠ることになるだろう。
 嵐の中だというのに澄んだ女性の歌声が耳に届く。いや、耳で聞いているのではない。脳が直接――精神に直接響いている。
 船が大きく傾き、波の上で立ち上がった。そこに大波が襲い被さり、船を丸呑みしてしまったのだ。小さな漁船などひとたまりもない。
 荒れる海の中へ放り込まれた伸彦は必死にもがいた。もがけばもがくほど、海深く身体が沈んでいく。それでもなにもしないわけにもいられず、海面を目指そうとしたが、片足が思うように動かない。
 見ると脚からは血が流れ、刺すような痛みに気づいた。甲板から投げ出されたとき、なにかで脚を切ってしまったようだ。
 痛みなど気にしている場合ではなく、伸彦は必死に生きようとした。しかし、駄目だった。どんどん海面が遠ざかっていくのがわかった。
 そして、伸彦は生きることをあきらめた。
 全身の力を抜き、意識が深い海の中に沈んでいく。
 唄が聴こえた。
 女性の美しい歌声。そこにはなんの恐怖もない。慈しみに溢れた唄だった。
 天に召されるにはちょうどいいと伸彦は思い、そのまま意識が途切れた。
 それからのことはよくわからないが、伸彦が目を覚ますとベッドの上に寝かされていたのだ。
 どこだかはすぐにわかった。村の小さな診察所だ。
 しかし、どうやって自分は助かった?
 浜からは距離があったはずだ。万が一、打ち上げられたとしても屍体となってだろう。それなのに自分は生きている。
 脚を見ると大きな古傷が目に入った。動かしてみようとしたが、思うように動いてくれない。あのときの怪我に間違いないが、痛みはもうないようだ。
「俺はどうしたんだ……」
 永い眠りにでもついていたのだろうか。
 生死を彷徨いながら、あの事故から長い時間が経過してしまった。そう伸彦は考えたのだ。
 仕切りになっていた白いカーテンをめくり、白衣を来た老人が顔を見せた。
「よかった一生目を覚まさんかと思ったぞ」
 それは見覚えのある顔だった。診察所の医師だ。もとより老人であったが、記憶と老けた印象はない。
「3日も眠り続けておったからな」
「なんだって?」
 伸彦は思わず聞き返してしまった。思っていたよりも短い。たった3日で脚の傷が塞がったというのか?
 言い知れない恐怖が伸彦を襲った。自分になにがあったのかわからない。海で自分になにがあった?
 やはりあの唄と関係があるのだろう。そうとしか考えられない。
 海で唄を聴いたことを伸彦は誰にも言うまいと誓った。海でなにがあったのかと訊かれても、ただ嵐に巻きこまれたとだけ話をした。
 それからというもの、伸彦は海に出なくなった。誰もそれを悪く言うものはいなかった。海に死にかけたとなれば、あの勇敢な伸彦と言えど海が怖くなったのだろうと、同情すらする者もいた。
 しかし、伸彦は海が怖くなったのではない。あの唄が怖いのだ。決して恐ろしい歌声ではなかったが、あの唄には恐ろしい魔力があると伸彦は確信していた。
 しばらくはなにもなかった。
 平穏な日々が続き、海での出来事を忘れようと伸彦も努めていた。そんなとき、この小さな漁村に流れ者がやって来たのだ。流れ者は女性だった。
 女性は誰の目にも美しく垢抜けていた。しかし、都会からやって来たようにも見えない。自然が作り出したような美しさを兼ね備えていたのだ。
 こんな女性がひとりでこんな辺鄙な場所にどうしてと、誰もが思いはしたが、こんな場所に来るには深い事情があるのだろうと、深く詮索する者は誰もいなかった。
 民宿すらないこの場所で、女性の泊まる場所などなく、村人達も女性と少し距離を置いていた。よそ者と関わりになることを避けていたのだ。
 そんな中、ただひとりだけ女性に優しく接する者がいた。それが伸彦だったのだ。
 男ひとりの家だと言ったが、女性は疑うことなく喜んで伸彦の家に止めてもらうことになり、いつの間にか、長く逗留することになっていた。
 女性の名は瑠璃とだけ名乗り、それ以外のことは話そうとせず、伸彦も過去にはこだわらなかった。
 いつしか村人達も瑠璃に心を開くようになり、まるで昔からの顔なじみのように接してくれた。その要因は伸彦と瑠璃が愛を育んだことも大きいかもしれない。
 瑠璃は伸彦との間に男の子をもうけた。それが海男だ。
 どんな母親よりも瑠璃はしっかりしていると伸彦は思っていた。家事をそつなくこなし、性格も良く、おだらかな人柄をしていた。
 しかし、伸彦にはひとつだけ気になることあったのだ。
 瑠璃はたまに鼻歌を口ずさむことがあり、その唄を口ずさむと必ずといっていいほど雨が降るのだ。ただ、そのときはその唄のこと気にも止めずにいた。忘れていたのだ。
 あるときは、出かけてきますと瑠璃が言い残した後に、嵐が来たこともあった。伸彦は心配したが、嵐が治まった頃に瑠璃は何事もなかったように帰ってきた。
 そんなことが続き、忘れていた記憶を伸彦が取り戻すのは時間の問題だった。
 瑠璃の鼻歌が、嵐の海で聴いたあの唄だと気づいたときにはぞっとした。それでも伸彦は瑠璃になにも言わずにいたのは、それほどまでに瑠璃に惚れ込んでいたからだ。
 それでも伸彦の瑠璃を見る目は自然と変わり、態度には出なくとも瑠璃を恐れていたことは間違いない。それは瑠璃にも伝わってしまっていたに違いないと、今になって伸彦は思う。
 ちょうど海男が5つになったころ、事件は起きたのだ。
 すでにそのころには、大きくなった海男を見て、周りが変な反応をするようになっていた。伸彦と海男を見比べて、本当に血が繋がっているのかと疑う者が現れたのだ。
 噂が大きくなりはじめ、瑠璃がある日、突然に姿を消したのだ。
 伸彦には出かけて来ますとだけ言い残し――。
 その日も小さな漁村を嵐が襲った。
 波は激しく荒れ狂い、港に停泊していた船を何隻も呑み込み、碇を沈めてあった船までも沖へ流されしまった。
 そんな嵐の中、伸彦は唄を聴いたのだ。