傀儡師紫苑アナザー
「近道ですか?」
眼前に迫るお紗代の顔を前に、愁斗は少し首を傾げて尋ね返した。
「はい、地元の者しかしらぬ洞窟がありまして、そこを通り抜ければ、隣村まで六里ほどで行くことができます」
六里はメートル法に直すと、二三キロメートルほどになる。
「では、参りましょう」
静かな微笑を浮かべ、お紗代が歩き出す。愁斗はなにも言わずお紗代についていくが、亜季菜は乗り気ではなかった。目の前を愁斗と歩くお紗代を見ていると、自分の可愛がっているモノに変な虫が付いたようで嫌なのだ。
前を歩く二人を追う途中で、亜季菜は家の物陰に小さな子供がいることに気が付いた。
襤褸を纏った小さな男児が、憎悪と狂気に満ちた眼でこちらを見ている。なにがそんなに怨めしいのか、亜季菜にはわからなかった。
自分の胸だけに留めることにし、亜季菜は愁斗たちを追った。しかし、もし亜季菜が男児の片腕がないことに気づいていたら、なにも言わずに立ち去ることはなかったかもしれない。
多くの木々が生い茂り、薄暗く、不気味な獣道を進んだ。
「最悪だわ」
と、亜季菜は歩き始めて数分で愚痴をこぼし始めたが、少し前を歩くお紗代は黙々と歩き続けていた。蒼白い肌をして、足音も立てない弱々しい歩みをして、それにも関わらず、お紗代のほうが亜季菜よりも体力があるように思える。身体が弱いというのが嘘のようだ。
あの集落を出る前に、亜季菜は愁斗に言われてハイヒールの踵を折ったが、それでも運動靴に比べ歩きづらい。
「もう限界よ」
弱音を吐いた亜季菜を引きずって、三キロほど歩いただろうか、前方に岩場が見えてきた。
崖になっているその一角に、黒い口を開けている洞窟の入り口が見える。あそこが近道に違いない。
洞窟に入る前に、お紗代は持参していた松明に火と灯した。
明かりが闇に隠れていた洞窟の手前側を彩る。何かしらの道具で掘ったように整った洞窟は、自然にできたというより人工洞窟のようだ。過去に鉱石の発掘か、街道への近道として掘られたのだろう。
薄暗い洞窟の中を各自持った三本の松明の明かりだけを頼りに歩く。
ゆっくりとした歩調で慎重に歩く亜季菜は、足元や壁を注意深く見ていた。洞窟に潜む洞窟動物――ホライモリやホラトゲトビムなどの類がいることを心配しているのだ。
闇の奥からガサガサとなにかが蠢く音が聞こえた。
引きつった顔をした亜季菜は松明を前に翳して、
「ちょっと見てきてよ」
「僕がですか?」
「愁斗が行かなきゃ誰がいくのよ」
「――僕が行く必要がなくなったみたいです。急いで来た道を戻りましょう」
巨大な影がこちらに近づいてくるのを確認して、亜季菜は愁斗の言葉の意味を理解して来た道を走って帰ろうとした。
「ごめんなさい、お帰しすることはできません」
そこに立っていたのは背中に白い光を浴びるお紗代であった。
愁斗と亜季菜の背後からは、巨大な塊がゆっくりと向かってきている。
焦る気持ちを抑えながら亜季菜はお紗代に尋ねる。
「どういうこと?」
「ひいお婆様の糧とお成りください」
一瞬、眼の錯覚と思い、亜季菜は目を擦ったが、それは錯覚ではなかった。
身体の左右から一本ずつ突き出た枯れ木のような物体。それは脚であった。四つん這いならぬ、六つん這いの姿勢を取ったお紗代は、まるで昆虫のようであった。
呆然と立ち尽くす亜季菜の腕を愁斗が掴んだ。
「出ましょう!」
走り出す二人の前に立ちははだかるモノは、怪物と化したお紗代であった。
顔はお紗代のままだが、身体はすでに変異し、蜘蛛と化していた。
飛び上がったお紗代が愁斗たちに襲い掛かる。
シュッと愁斗の手から放たれる妖糸。その糸は確実のお紗代を捕らえるはずであった。しかし、お紗代は糸を吐き出して、空中で身を翻して移動方向を転換して見せたのだ。
自分の攻撃を躱[カワ]したお紗代に目もくれず、愁斗は亜季菜の手を引いて洞窟内から逃げ出した。
草木の生い茂る道なき道を逃げる。
風の音に紛れて何者かが蠢く気配がした。
「亜季菜さん、息を潜めて身を隠して」
「…………」
亜季菜は固唾を呑み込んで無言で頷くと、愁斗と共に背の高い草むらの中に身を潜めた。
草むらの隙間から見えた小柄な人影は、なにかを探すように辺りを見渡しながら歩いている。その人影に亜季菜は見覚えがあった。あの集落で見た片腕のない少年だったのだ。
しかし、少年には腕があった。それはまさしくお紗代が変異した、あの姿に似ている。少年もまた蜘蛛の物の怪であったのだ。
少年がギロリと目を動かした――次の瞬間!
人間の跳躍力では成し得ぬ高さを少年は飛んだ。
草むらから飛び出した紫苑の手から煌きが放たれる。
少年の脳天から股間に紅い一筋の線が奔[ハシ]った。ずるりとズレる半身。すでに少年の身体は縦に真っ二つにされていたのだ。
亜季菜は目を見張った。真っ二つにされて地面に落ちているはずの少年の残骸がない。換わりそこにあったのは、身体を真っ二つに割られた蜘蛛の死骸だったのだ。
「やっぱり、今朝方あたしたちを襲った蜘蛛だったのね」
「あそこにいた人々全員です」
予想はしていたが、それでも亜季菜は驚愕した。
「どうして早く教えてくれなかったのよ!」
「それを知れば、亜季菜さんは過度の警戒をするでしょう。それは相手にも伝わります。あそこにいた全員を一気に敵に廻したくはないですから」
蜘蛛の化け物に囲まれながら一晩を過ごしたと考えると、亜季菜は全身から血の引く思いだった。
「それに――」
静かに呟きながら、愁斗は振り返った。
「君からは殺気を感じなかった」
そこにいたのは、愁いの帯びた瞳を持つ儚げな娘――お紗代であった。
人間と寸分変わらぬ姿に戻っているお紗代は、静かな落ち着いた声を発した。
「最初から私が蜘蛛の化身であることを見抜いていたのですね。あなたなら私たちを殺すこともできたでしょうに」
「僕は異形のもの全てが敵とは思わないよ。敵は同族の中にもいるからね」
「……そうですね。ですが、私たちはあなた方を喰らおうとしました。けれど、最初からあたなたちを喰らおうと思っていわけじゃありません。全てはあなたのせいです」
お紗代が視線を移した先には、呆然とする亜季菜が立っていた。
「あたしのせい?」
「ええ、あなたが私たちの仲間を殺したから」
殺した覚えなどない亜季菜は否定しようとしたが、脳裏を掠めた老婆の死相と、老婆が絶叫を発する寸前に自分が殺した蜘蛛とが、ひとつの糸に結びついたのだ。
「あたしはそんなつもりで……」
口ごもる亜季菜にお紗代は詰め寄った。
「私たちは罠を仕掛けて狩りをする。自分たちが傷ついてまで食料を確保したいとは思いません。だから私たちはあなた方を見過ごすつもりだったのに……」
哀しそうな瞳をするお紗代を黒い影が覆った。
それは巨大な蜘蛛であった。
体長五メートル、脚を入れればもっとだ。その蜘蛛はまさにあの洞窟の奥に潜んでいた蜘蛛であった。
巨大蜘蛛の紅く光る五つの目は、愁斗と亜季菜の二人を捕らえていた。そして、片言ながらも人語をしゃべりはじめたのだった。
作品名:傀儡師紫苑アナザー 作家名:秋月あきら(秋月瑛)