かぐや姫は、もういない
はづきと知り合ったのは中学生になったばかりのことだったから3年ほど前のことだったけど、私はそのずっと前からはづきのことを知っていた。すぐ近所に住んでいたからだ。
小学生の頃はクラスが別々だったから接点はなかったけど、はづきは二つの意味で目立つ存在だった。
すなわち、「美人」であり「電波女」という抜きん出て疎まれる特徴のせいだった。このどちらか一つだけしかはづきが持っていなかったら、あそこまではづきが嫌われることはなかっただろうな、と私は思う。
クラスが違っていてもそれとわかるほど、はづきは一人ぼっちだった。
はづきのクラスはいつもホームルームが長くて、必ずと言っていいほど、議題は「榎本はづきさんへのいじめをやめましょう」というもので、担任の先生はいつも声を張り上げて「人の持ち物を隠したり、まして捨てるなんて最低の行為だ」とか「自分が無視されたらどんな気持ちになるのか考えてみなさい」とか、「いかにも」な内容の説教を毎回ダダ漏れにしていた。先生はそんなつもりはなかったのかもしれないけど、あれじゃあ「榎本はづきは物を隠されたり無視されたりしている、そういう子なんですよ」と宣伝しているようなものだ。
いつも一人で家路に着くはづきの顔は「私は平気です」とでも言いたげにすましたもので、それでいて靴の片方がなかったり、スカートの端が泥で汚れていたりした。
1回だけ、クラスの垣根を越えて学年ホームルームというのが開かれたことがある。
滅多に使われないスクリーンを先生たちが用意して、ずいぶん古いホームドラマを見させられた。
親がいない「かわいそうな」女の子が、それでも強く生きていく「かわいそうな」話だった。
「君たちの中には、親御さんがいない子もいます。それでも、君たちと何も変わることのない人間です。差別をされるいわれも、意地悪をされるいわれもありません。それを、忘れないでください」
先生の締めくくりのこの一言に、このホームルームははづきのために開かれたのだと、なんとなくわかった。
そうか、あの子には親がいなかったのか。
集められた子の中には泣いている子もいた。ホームドラマに感動したのか、先生の言葉に自分を恥じたのか、それはわからない。
ホームルームは妙にしんみりとしたものになって、その場にいた誰もが「かわいそうな」子を「憐れむ」雰囲気になっていた。
ただ一人、唇を噛みしめて震えるはづきだけを除いて。
私は、はづきが声もなくひたすらに「かわいそうな」子のレッテルから自分を保とうとしている姿を見て、思ったのだ。
人に「かわいそう」と思われて初めて、人はかわいそうな人間になるのかもしれない、と。
作品名:かぐや姫は、もういない 作家名:やしろ