「愛されたい」 第三章 家出と再会
智子の実家は愛知県知多半島の真ん中にある武豊町(たけとよちょう)にあった。三河湾よりの小さな町で、古くから醤油醸造が盛んな町でもあった。東海道線の支線になる武豊線は歴史も古く武豊港からのあらゆる物資を鉄道輸送する重要な場所でもあった。今は寂れて歴史の街になってしまったが、隣町の半田市には酢や日本酒で有名な大企業があって遊び場や商店も多い。
実家に着いた智子は両親に伸一がしたことを話した。
「あの優しい伸一さんがお前にそんなことをするなんて、信じられないよ。何かいけない事をしたんじゃないのか?」
「お母さん、私は何もしてないのよ。毎日ちゃんと主婦もしていたし、出かけるときはご飯の用意だって有里に頼んでいたし。ちょっと帰りが遅くなったからって、酷いことされるような覚えはないのよ」
「とにかく二三日泊まって正月前には帰りなさいよ。有里や高志が待っているんだから」
「無理・・・有里と高志はここに呼ぶから」
「何言ってるの!あなたはお母さんでしょ。伸一さんのことは後にしてでも、まずは子供のこと考えるのが大切なことよ」
「あの家には居られないのよ。居たくないの。有里や高志がここに来たくないって言うのならそれでも構わないの。もう大人なんだし。母親として傍に居たいって思うけど、伸一さんの顔は見たくないの、絶対に」
「あなたいつからそんな母親になったの!自分のすべてを我慢してでも子供のことを考えるのが親なのよ。違うの?」
「お母さん、考えてないなんて言ってないじゃない!ここがダメなら有里と高志を連れてどこかで暮らすから。私の20年間の我慢はもう限界なの。このことだけで嫌になったんじゃないんだから・・・」
智子は母親に延々と今までのことを話した。
母は黙っていた。
聞いていた父親も黙っていた。
無言の空気がしばらくの間続いた。その重苦しさを遮るように父親が短い言葉で、
「ここに居たらええ。気持が収まるまでな」
「お父さん、ありがとう」智子はやっと肩の荷が下りた。
翌日の朝、有里から電話がかかってきた。
「もしもし、間瀬ですが・・・ああ、有里ちゃん、久しぶりね。うん、智子は居るよ、代わろうか?」
「おばあちゃん!お願いします」
智子の母親は間瀬多恵子と言った。父親は仁志。父方の兄と共同でたまり醤油の醸造と販売を古くから続けていた。昔は商店だけに卸して販売していたが、時代の流れなのか今は3代目が販路を広げてネット通販や地方のスーパーなどに拡販をしていた。当然仁志や兄は半分引退していて、役員として製品の品質に口出しする程度に変わっていた。
「有里、おはよう。ゴメンね、お父さんの世話させてしまって」
「それはいいのよ。ねえ、いつまでおばあちゃんのところにいるつもりなの?」
「うん、母にも帰りなさいって言われたけど、お父さんの顔は今は見たくないの。お正月が過ぎてから帰るわ。あなたと高志ももう休みなんだからここに来たら?」
「お父さんはどうするのよ?」
「実家に帰るわよ。お正月なんだから」
「本当にお正月がすんだら帰ってくるの?」
「そのつもりよ。何故?」
「もうお母さんが帰ってこないような気がして、昨日からずっと泣いてたの・・・本当に帰ってくるのよね?」
「有里・・・あなたには何でも話してきたから、辛い思いをさせたわね。許して頂戴。お母さんね、家に帰ったとしても昼間は働くから。自立できるように収入が欲しいの。それをお父さんが認めてくれることが帰る条件よ。ダメなら、外に出てアパート借りて暮らす覚悟なの」
「うん、お父さんに許してもらうように私からも話すから。帰ってきてね、きっとよ!」
「有里はお母さんのことより、自分のことを考えなさいよ。学校も大切だけと結婚はもっと大切なことなんだから。ゆっくり考えて、早まらないことよ」
「まだそんな事考えてないよ。今はお母さんとお父さんのことが有里には大切なことなの。高志は男なのかしら全然気にならない様子だし。お父さんに似たのね、きっと。最低・・・」
「兄弟喧嘩はしないでよ。高志もお姉ちゃん頼みって言うところもあるんだから。それに男の子は早く自立した方がいいし、彼女が出来たら後を追い掛け回すようになるから・・・」
「高志に彼女?無理!あんな性格悪い奴に女なんて近寄ってこないから。それに、ゲームばっかりやってて頭悪いから尚更出来ないよ」
夫に似たのであろうか。
智子は実家の間瀬家で平成10年の正月を迎えた。夫が自分の実家に行ったから、有里と高志は智子の傍に来ていた。久しぶりにゆっくりと正月を孫と迎えた多恵子と仁志は、その事では上機嫌だった。有里はおばあちゃんの多恵子が昔から気が合うのか、ずっと何か話をしていた。高志はひたすらゲームをする時間が多かった。
知多半島の武豊町からは反対側になる野間大坊(のまだいぼう)に初詣に揃って出かけた。古くは平治の乱に敗れて東海道を逃げ延びて立ち寄った源義朝が家来に恩賞目当てで討ち取られた歴史も残っている由緒ある寺であった。
智子は本殿に手を合わせてしばらく祈っていた。
「お母さん、何をお祈りしていたの?」有里が尋ねた。
「うん、あなたと高志の無病息災と父母の健康をお祈りしたの」
「お母さんのことは何もお祈りしなかったの?」
「私のこと?・・・そうね、お仕事見つかりますように、って言う事ぐらいかしら」
「やっぱり働くのね。お父さんいい顔しなかったから、嫌な予感がするわ。我慢できないの?どうしても」
「家のことはちゃんとやるのよ。お洗濯も、お掃除も、片付けもね。働いてお金もらってお父さんと半分ずつ負担して家計のやり繰りをするの。そうすれば、文句言われないですむでしょ?」
「そんな無理しないで、お父さんにこれからはこうやらせて!ってお願いしてみたら?」
「それが言えたら、もうしてるわよ」
「お母さん出てゆくことになるよ。きっとお父さん許さないから、働く事は」
「どうしてそう思うの?」
「だって、お母さんを独り占めにしたいって思っているんでしょ?働きに出たら何が起こるか解らないって思ってるわよ」
「何が起こるのかしら?別に働くだけで何も変わらないと思うけど」
「その・・・誘惑とかあるでしょ?男の人から」
「バカね!こんなおばさん誰が誘惑するのよ。可笑しい・・・」
「お母さんはそうは思ってないでしょ!ごまかさないで」
鋭く胸の内を見られた気がして、智子はハッとした。
「何を話してたの?」多恵子は孫の有里にそう聞いた。
「お母さんね、働くって言うのよ」
「そうなの?智子」
「ええ、昼間の時間に少し働いて夫と半分ずつの負担でこれからは暮らしてゆこうって思ってるの」
「どうしてそんな無理をしたいの?伸一さんの収入でやってゆけない訳じゃないでしょ?」
「自分でやりたいことに遠慮したくないからよ。お稽古事とか、美容とかにね」
「そんな事、少しなら私が出してあげるから、働くなんて止めなさいね」
「そんなことしてもらったら、それこそ夫に何を言われるか解らない。身体もてあまし気味だからちょうどいいのよ、仕事して、ちゃんと家のこともするから」
作品名:「愛されたい」 第三章 家出と再会 作家名:てっしゅう