エフェドラの朝
わたしは傘の波を避けながら無言で歩いた、濡れたまま歩いた・・。
わたしは、あの観衆に、奴はゲームなどではなく、ハンマーを振り上げることだけを生業としていることを見透かされた気がした。
本も読まず、生涯エロ本以外に手にする事もなく、酒と暴力と性欲にしか興味のない男達の仲間だと思われた気がした。
いや・・仲間だ、奴らはわたしの仲間だった。
終わりない人の羅列に激しい疲労を覚える。
後から後から繋がり、エッシャーのだまし絵のように際限なく続く人の螺旋に眩暈がした。
「千秋・・・何か食べよ・・休もう・・その方がいいみたい・・。」Fがわたしの顔を覗き込んだ。
青い看板のファミレスへ入った。安いBGMが流れ、周囲から穏やかな話声がする。
ボックス席に掛けると、安堵がある。Fを見ると肩が濡れ、ブラウスが素肌に張り付いている。
わたしが、おしぼりを渡すとFはわたしの顔をしげしげと見ながら今の生活を尋ねた。
「実際どうなのよ・・・いまの生活・・まともなの・・・今日の千秋・・少し変よ。」
体格は急激に変わり、顔つきが険しくなり、以前のわたしでなくなっている・・・と言った。
Fの言葉が痛かった。胸にFの言葉が突き刺さった。それは以前から自身が気付いていた。ただ肯定したくなかった。以前に増して世間に背を向け怨み、妬み、生きる自分がいた。
一本のビールをふたりで飲む。白い皿にきれいに盛られ、その余白まで計算された料理をじっと見つめた。
「千秋・・・・食べよ・・・。」
ふたりが店を出ると雨は上がり日が落ちている。昔の話などとりとめのない事を話し、あてどなく歩いた・・・。
人通りの少ない路地に入ると料金表の看板のある館がある。Fはわたしの手を引くとその館に入った。
玉砂利に打ち水がしてある。踏み石を渡り館に入ると割烹着の中年女性が此方を見ずに料金だけを告げ部屋に案内する。
窓のない部屋には派手な大きな布団があり、枕が二つ並んでいる。
Fは無理に作り笑顔で話す。・・わたしの今している事は小さな小さなイデオロギー闘争にしか見えず、時代おくれのマルクス主義を見ているようで滑稽と言い放った・・。
「ああ・・・そうさ・・おれは時代おくれのプロレタリアートさ・・きっとFのようなブルジョワリーと戦っているのさ。」
「・・・・・・・・・。」Fがわたしの手をとると、肉刺が潰れごわごわと厚い皮ができた掌を頬に当て、目を閉じ指を舐め、掌を舐め・・・口に含んだ・・・。
「1年ぶりね・・・でも・・あなたは・・・」
Fの擦れた声が句読点を打つ前にわたしは、Fを押し倒し、唇でつぎの言葉を遮った。
その日もバックホー(掘削機械)を操作し掘削作業をしている。
バケットを地面に食い込ませゆっくりと漉き取る。
両手のレバーを繊細な力量で支配すると、油圧は血液となり、シリンダーは堅固な筋肉となった。
あたかもバケットが自分の指先のように感じる瞬間がある。
無機質なはずの超硬メタルの爪が細胞分裂を起こす。
その強靭な爪は岩を砕き、抱き、投げる。この世に破壊できないものなど無いと幻惑させる。
土砂でいっぱいになったバケットを掬い上げ旋回しダンプに積み込む。その動作を際限なく繰り返した。
中村と数人の作業員が3メートル下で土留め(土砂崩壊を防ぐ板)に切り梁(その板を押さえる横の柱)を掛ける。
「いっぷく・・いっぷくしろよ・・。」わたしは休憩を勧めた。
中村が天を仰いで薬缶の水を飲むと、土と汗で濡れた喉仏がトクトクと波打つ。
タバコに火を点け、目を細めゆっくり煙を吐き出す。
「わるいな・・・中村さんに先掘りなんかさせて・・・」
(先掘り・・・機械で掘削した後、計画の深さまで高い精度で人力掘削により微調整すること)
「千秋・・お前・・・巧いよ・・・おかげで楽できる・・・。」お世辞とも本音とも付かない言葉を吐いた。
道端に座り何気に辺りを見ると資源ゴミの日のようだった・・・。新聞、雑誌の束が紐で括ってある。
一冊の専門書が見えた。『流体力学』という文字が見える。
束からその一冊を引抜きバックホーの運転席で開いてみる。
恍惚とした・・・。
XとYの数式に見惚れる。それを見ているとる涙がこみ上げてくる。
数式が涙で歪み見えなくなる。その時、心から素直に勉強したいと思った。
わたしの言い知れない飢餓感は学問に対する飢餓だと確信した。
学歴などどうでもいい、学習することが自分の生きる糧だと感じた。
光りは見えた・・深淵は埋まった。
図書館に行き本を読み漁った。図書館の静寂に身を置き本の臭いを嗅いだ。宿舎でも読み、夜は階段の電灯の下で読み、昼休みも読んだ。自分は海綿体だと感じた。一滴の言葉、一滴の数式が枯渇した自分の血となり、音をたて吸収する。
元請の若い監督から測量を教わった。
「ほら・・接眼レンズを覗くと十字線が見えるはず・・。」
若い監督が丁寧に教えてくれた。
水準測量の実践を教わりテキストで確認する。
トランシット(角度測定器)の据え方を教わり・・・何度も練習した。
楽しい・・・・・学習は歓喜に変わった。
数年後、わたしは幾つかの国家資格を取得し、ヤドカリが身の丈にあった家に棲み替えるように、名刺に刷り込まれた所属建設会社の名前を変えた。
「あと3メートルで都営地下鉄の真下に入るはず・・・。」技術の市村が呟いた。
シールドマシーンの軌道をパソコンのモニター上で凝視する。ベンチマーク(基準高)の照合も都営側と確認はとった。トラバースでの位置確認でカッターヘッドは僅か3ミリ右に寄り、水準測量では6ミリ下の測量結果である。
コンピュータの値と合致している。
完璧な筈・・心に言い聞かせた。
ただ・・既設の都営側の測量データが間違いないとして・・が前提である。
夕方、地下鉄直下をこのシールドマシーンは通過する・・心臓の鼓動が聴こえる。
土砂の取込み量測定をするように若い職員に指示した。泥水の比重、粘性度も基準値の範囲である。
山が落ちたら・・・。大惨事は免れない・・。 離隔800ミリか・・・。
重圧に潰され、その場から逃げ出したい衝動を抑えつけた。
立坑は地下水の水滴が垂れ石灰の臭いがする。
長い螺旋階段を降り、シールド坑内に入ると送、排泥管が2本並び、送風ダクトが伸びヒンヤリとした空気が漂う。
切羽まで歩くと油圧温度で一気に温度は40度以上となり噎せ返る熱気に代わった。切羽では後方セグメント(土砂を侵入を防ぐ筒状の外殻)の組立が終わり、油圧ジャッキが緩慢に伸びる。
セグメントを反力にしてジャキは膨大な力でマシーンを推進させた。カッターヘッドの回転音は「・ぐおん・ぐおん・」と坑内に木霊する。都営地下鉄直下の通過点に達すると裏込め材を削る音が「ガリ・ガリ」という音に変わった。
シールド坑夫の猛者達も手を止め・・音の変化に集中した・・誰もが言葉を発せずカッターヘッドの回転音に集中した。暫らくすると「ぐおん・ぐおん・」の音に戻った。無事マシーンは通過した。
有線電話が計画位置の通過を伝えた。坑夫の汗で濡れた顔に白い歯が見える。安堵があたりを包む。