エフェドラの朝
「ばかやろ~こっちへ来てガラの積込みをしろ!」わたしは、箒を杖にして遊んでいる片目を大声で恫喝した。・・苛立っている・・あきらかに苛立っていた。朝から仕事量と人員構成、配員、全てが間違っていると感じていた。林がラジオで気温35度を超えたことを伝えた。
リヤカーに積んだドラム缶を引きずり乳剤を散布する。ベニヤ板を建物に掛からないようにスプレーヤーの動きに合わせ移動した。路盤はギラギラとした光沢を発し熱を反射させる。フィニッシャーが両方のウイングを開け、悪魔を受け入れる体勢を整えた。10トンダンプが後退し軽くフィニッシャーに触れると傾斜角25度程荷台をダンプした。
140度の悪魔が滑落すると、螺旋ローターが回転し悪魔を送り出す。天からの灼熱と地からの熔熱に目を細め、口を閉じる。平スコップを廃油に漬け合材を跳ね上げる。茶色い油煙が沸きあがり、表面が蜃気し揺らめく。蒸発熱より激烈な熱量はシャツを濡らさず、乾いたまま塩の筋痕をシャツに残した。疎ましい悪魔がスコップに張り付き廃油に漬けとジュッとほざいた。顎から垂れる汗は合材に垂れ落ち・・チッと啼いた。中村のレーキが追い付いてこれない・・フィニッシャーに負けている。向こうで林が咥えタバコで振動ローラーに乗り出番を待っている。
レーキが止まった・中村がしゃがみ込んだ・・熱中症だと直感した。
「中村さんじゃ・・無理だ・レーキマンを替わってやってくれませんか」
わたしは林に懇願した。
林は薄笑いを浮かべ・・嘲笑する。・・・わたしは林に殺意を覚えた。無責任に嘲笑する林を本気で殺したいと思った。中村を日陰に寝かせると、林がレーキを持っている。林から操作を教わり振動ローラーを運転した。「急ハンドルは絶対に切るなよ・・いいな」林が怒鳴った。一層目の基層が終わり地獄は残り2層となった。「千秋・・ここに一杯だ・・。」林が指示をだす。わたしが合材を跳ね上げ、林が合材を敷きならす。薬缶の口から直接水を飲む喉を下がり胃に流れ込む様子が分かる・・わざとこぼし胸元を濡らした。塩を舐めると・・甘い。安全靴に熱がこもり足裏に鈍痛を覚えた・・・。
飯場に戻り布団の上で、そっと靴下を脱ぐと足裏が白くふやけ、水膨れ、皮が剥離している。触れると皮はぶよぶよとし、芯に痛さがあった。
「千秋・・呑め」林がビールを勧める、黄金色の液はキリリと冷え、淡く白い泡が立ち上がる。
旨いと思った・・苦いだけと思っていたビールをその日初めて・・本当に旨いと思った。
「お前・・トラックはもう大丈夫だな・・明日からバックホーの練習しろ・・いいな」
林が笑った・・。
うつらうつらと気だるく目が覚める・・・今日もまたプレハブの屋根に穏やかな雨音がする。何もする事もなくそのまま寝返りを打っては目を閉じる。昨日も一日布団で過ごした。誰かの捨てたスポーツ新聞を眺め、うとうとと惰眠を続けた。
隣が老眼鏡で競馬新聞を読み、向いが水虫の足を組んでエロ雑誌を読む。
読んでは捨て、また拾っては読み返す。
只、枕元の灰皿に空しい吸殻の山ができた。
プレハブの部屋全体に湿気た洗濯物が所狭しとぶら下がり、怠惰な溜息混じりの時間がゆっくりと流れた。
「土方殺すにゃ刃物は要らぬ、雨の3日も降ればよい・・か。」
中村が窓の外を眺め・・溜息をついた。
「千秋・・電話だぞ~・・・おんな・・若いおんなだぞ・・。」
事務所の秋元がにやけて呼びに来た。
暇を持て余した奴らが囃し立てる・・無視して雨を避けながら事務所へ向った。
会釈して事務所へ入り、受話器をとると聞き覚えのある声がする。
Fである・・・。
「土方殺すにゃ刃物は要らぬ、雨の3日も降ればよい・・。」
「やっぱりこの雨じゃ休みだったみたいね勤労青年・ふっふっふっふっ」
夏休み家に電話したところ、わたしが東京に働きに出ていることを知り、母からここの電話番号を聞いたことや、友達なのに水臭い・などと早口で話した。
Fは地元のいわゆる良いとこのひとり娘で、今は千葉の国立大学の文学部に在籍している。
数年前まで下宿しながら偏差値の高い高校に通っていたが、なぜか歳が1つ上なのに気が合い休みの日などはよく遊びに来ていた。
「じゃ・・午後1時に渋谷で・・。」Fは強引にわたしに約束をとりつけると電話を切った。
久しぶりに作業着から外出着に着替え、身支度を整えると違和感がある。荒れたプレハブ宿舎と、汚れた作業着を脱いだ自分との距離に羞恥を覚え早々と宿舎を出た。普段、油に汚れた作業着を着たわたしはその朽ちたプレハブ宿舎と同化してむしろ安堵を感じるが、それを脱ぐと、酷く他人の目が矢のように刺す感覚に襲われ、何故か自身を陰惨に感じた。
慣れない地下鉄に乗り、JRを乗り継ぎ渋谷に着いた。
約束の場に立ち周囲を見渡すと華がある。
同世代の男女が若さを謳歌する。流行の服を着て大声で笑い、じゃれあい、驚愕の声を沸きあげる。
ただそれは神経質な職人によって精妙に作りこまれた造花のようでもあり、うわべだけの豪奢であり、ただ空虚に感じた。
親の脛とはいわず腕に腹に寄生し、親の体液を吸い尽くす蛭か餓鬼の群れに思えた。
わたしは強く嫉妬した。
今わたしの安住はあの半分朽ちたプレハブ宿舎であり、その同胞は無秩序で礼儀も知識の欠片も持ち合わせない。しかしその獣達がわたしの拠所となっている。行き場のない深淵でもがき苦しむ自身がいる・・・彷徨った・・眩暈がする。
「傘は・・・?」Fが背後から訊いてきた。
「頑張っているかね・・労働者」揶揄とも辛辣ともつかない台詞を吐いた。
「ああ・・頑張っているよ・・プチブルさん」顔を見合わせ笑った。
Fは現代演劇を始めたと言った。今朝の・・土方殺すにゃ・・のくだりは舞台の足場を作りに来たとび職からの請け売りで最近仕入れた言葉らしかった。
「いいタイミングで使っちゃったわよ・・」
だから今日の雨は幸運の雨なのと言った。
Fの傘に入り緑の多い公園を歩くとスタジアムがあり人通りの多い大路を横切った。
路地の向こうに人だかりができ歓声が聴こえ、ちゃらけた司会がマイクを手に観衆を煽るっている。
清涼飲料水のキャンペーンだった。そこには4メートル程の支柱があり、下の木片をハンマーで叩くと錘が跳揚し頂上のベルを鳴らすゲームのようだった。何人かの大男が満身の力でハンマーを振り下ろすもベルは眠ったままである。覚醒の気配さえない。
「千秋・・やってよ」Fが背中を押した。わたしはよろけ円陣の中央に立たされた。司会がわたしを見ると・・また観衆を煽った。
ハンマーを持つといつもと変わらない感触がある。
舗装版を叩き割る感触が蘇った。一点を凝視しハンマーを振り上げ叩きつけると、錘は瞬時に跳躍しベルに体当たりをくらわした。ベルが周囲に鳴り響いた。
わたしは赤面した、日々の重労働で進化した筋力を恥じた。
Fが歓喜の声をあげ観衆がわたしに拍手する。
わたしは景品のTシャツと清涼飲料水の入った袋を受け取ると、その場から逃げるように立ち去った。
「千秋・・・・急にどうしたのよ・・・・あの場で皆に手でも振ってやればよかったのに・・・」Fが後を追いかけてくる。