エフェドラの朝
助手席には無精髭のあの片目が乗った。「前のワゴン車の後を付いていけば現場まで行けるから・・。」そう言うとダッシュボードに汚れた地下足袋の足を載せ、大股を開き目を閉じた。前方を走るワゴン車を見逃さないようにアクセルを踏み込む、明らかに信号無視のタイミングで交差点を走り抜けた。片目が鼾を掻いて眠り始める・・。現場の地図も住所も教えない無計画さに腹がたった、道案内も放棄し助手席で鼾を掻く片目の無神経さに呆れた。そのとき道を覚える事の重大さを知り地図を買おうと思った。
必死の思いで現場に着くと、トラックを路肩に寄せ資機材を降ろした。カラーコーンで作業範囲を囲み工事看板を立てる。林がコンプレッサーのエンジンを始動した。エンジンは黒煙を立ち上げ唸り上げる。
わたしにブレーカを指差し舗装版の取り壊しを命じた。体重よりも遥かに重いブレーカを垂直に構えハンドルの弁を押し込むと暴力的な振動が全身を打ち揺らす。ブレーカの自重と振動は舗装版に食い込む、耳鳴りで何も聞こえない。ブレーカを満身の力で舗装版から引抜く、何度も繰り返す、手の痺れは感覚を失う。
「片目が嗤う・・林も黄色い歯で嗤う」それを無視し厚い舗装版に体重を加え破壊した、手でハンドルを抑制し下腹部で押し込む、膀胱が刺激され尿意が襲う。
腕の筋肉が悲鳴を上げ腰骨が軋む、ヘルメットの隙間から汗が流れ、目に入り視界がぼやける。
舗装ガラをダンプに積み込む腕が上がらない。作業着は油脂と埃、汗で汚れた。手の平は振動で掻痒感を覚え震えが止まらない。奴らはタバコに火を点けわたしを値踏みする・・。
悪意のある視線を背中に感じる。休みなく身体を動かす。
ブレーカが停まり周囲に静寂が戻った・・。
「その舗装ガラを全部ダンプに積み込んだら・・穴を掘れ」林が冷たく言い放った。
林を含む他3人は竹ぼうきを杖に遊んでいる。
「地面から何メートル掘りますか?・・。」肩で息をし林に尋ねた。
「ばかやろ~・・おれが良いっていうまで掘りゃいいんだよ」鬼の形相で怒鳴りつける。
「はい・・分かりました・・。」怒りを無理やり押し込み、耐えた。鶴ハシを固く締まった砕石路盤に打ち込んではほぐしスコップで跳ね上げる。シャツは汗で重くなり身体は酸欠を訴え呼吸が荒くなる。
元請の若い監督が休憩を促したが無視した。その日、水道管の標準土被り(地面から管の天端までの深さ)が1.2mだと知る。
昼になり宿舎の弁当を路上で食べる。箸を持とうにも箸が持てない、握力は失せ摘んだご飯に顔を寄せて食らい付いた。
午後からもひとり穴を掘る・・黙々と穴を掘り土砂を跳ね上げる。
黒い水道鋳鉄管が土中から顔を出す、水道管に跨り管路全体を露出させた。
「管下30センチまで掘れよ・・。」背中に陽を受け顔のないあいつが地上から指示する。
軍手の手で管の下の土砂を掘り下げた。
夕方になり一日の終わりの予感がある。
しかし、帰る様子がない・・林が作業終了を告げない。
断水20時だってよ・・誰かの話声が聞こえた。水道管を切断し布設替え作業の事実をその時知った。
カラーコーンに明かりを燈す。水道局員が開栓器(本管バルブを開閉する工具)を持ち、図面の確認を始めた。
また長い夜が始まる。終わらない一日は存在する。
鋳鉄管を切断するエンジンカッターの甲高い音が夜空に響き、わたしの掘った穴で火花が散る。管内の残圧で水が噴水し火花と水が狂乱した。
翌朝、深い沼の泥のように沈殿する自分がいる。爪には黒い垢が入り込み、髪の毛にはヘルメットの跡がある。カレンダーに2つの○を付けると、首に砂を張り付けたまま死んだように眠った。
身体が重い・・溶けた鉛が全身を被い、四肢の関節が音をたてて軋む。陽は西に傾き夕暮れを知らせた。
右手親指と人差し指の間の肉刺が潰れ、両手の平に肉刺ができ手を開くと鈍痛が走る。壁につかまり、立ち上がると、足を引き摺り浴室へ向った。熱いシャワーを浴び、土埃と汗を流すとシャワーの飛沫が壊れた筋肉を癒し蘇生させた。
眩暈を感じる程の空腹を覚え食堂に行った。林が酔っている。目の前には数本の空のビール瓶があり日本酒を手酌する。林に無愛想に会釈し味噌汁の鍋に火を点けると蒼い炎が鍋底を炙りだす。
賄いのおばちゃんがご飯をよそってくれる。ご飯と豆腐の味噌汁、コロッケが目の前に並べられた。
吐き気がする。死ぬほど空腹なのに受け付けない。極度の肉体疲労は食物消化機能をも麻痺させた。
蒸し暑い便所へ駆け込み吐いた。黄色い強酸の胃液だけが湧き上がる。プレハブ便所の壁に手を付き何度も嘔吐する。胃液は枯渇し反芻反応だけが繰り返し、胃を搾り上げる感覚だけが残った。
食堂に戻ると林が嗤う。
「疲れ過ぎると飯が喰えなくなる、あそこも起たなくなる・。」
本気とも冗談ともつかない言葉を吐き笑った。
倉庫の前で胡坐をかきロープを編む白髪の爺さんが居た。
傍らに座り手元を見ているとイカ釣り漁師の祖父の面影が見える。
器用にロープを編みこむ祖父が其処にいる。
「若いけど・・新しい人かい?・・」故郷の訛りの匂いがする。
「はい・・青森から昨日来ました。宜しくお願いします。」何故か角のない穏やかな返事をしていた。
「わたくし・・・。北海道は函館の在の生まれ北村でございます。」冗談口調で言うと・・目尻に皺を寄せ笑った。暖かい笑顔が有難かった。
北村の爺さんは社長の遠縁にあたり、既に15年もこの会社に勤め、元漁船の機関士の腕を生かし建設機械の整備を一手に引き受けていることを話した。
「最初から張り切ると体がもだね」
「少しづつ、少しづつだ・・山あれば山を観る 雨の日は雨を聴ぐ・だな」
北村の爺さんが詠んだ・・。
「山頭火・・ですか」
「お・・め・・わがるが・・山頭火」笑顔に花が咲いた。
「えが~・・この端っこば・・こごさ挿して・・これば・・こごさ入れる・・わがったが」
「ほら・・薩摩芋みたいだべさ・・・だから・・さつま差しだ」北村の爺さんがロープの編み方をわたしに教える。布団の中で何度も何度も練習した。目を閉じても編めるほど練習した。指が記憶した。
「分け入つても分け入つても青い山」
北村の爺さんの山頭火が滲みた。
3ヶ月後・・・その日も真夏の灼熱は容赦なく私達を焦がした。
アスファルト・フィニッシャー(アスファルト合材を均す大型機械)を積んだ回送車が路肩で待機する。
バックホー(大型掘削機械)が唸りを上げて舗装版を剥ぎ取り緩慢に旋回し大型ダンプに積み込む。
舗装ガラを積むと、けたたましい音と共にダンプは・ぐらり・と大きく揺れる、運転手は窓を閉切りエアコンの効いたキャビンで涼しげにタバコを吸っている。
「林の野郎・・機械の運転が下手なくせして乗りたがる・・。」誰かが嘯く。
バケットが舗装ガラをすくい込む、こぼれた大ガラを抱きかかえバケットに入れる、また旋回する。
この作業がプロローグであることは皆周知している。これからあの黒い悪魔の洗礼があることを・・。