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紫陽花

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 ともかく庭へ降りてみよう!そう決心すると彼は階段を下りた。すると庭も紫陽花もいつものように彼をにこやかに出迎えてくれた。今や彼の馴染みの場所と化していたので当然と言えば当然であるが、それでも彼はうれしく感じた。クラスでも、部活動でも、心からの癒しの微笑を彼に向けてくれる人はいない。クラスでは孤立、部活動は激論を交わすのみの毎日である。「考えてみると、本当に彼女だけだ、僕に優しく微笑んでくれたのは」そんなことを考えながら紫陽花を眺めていたら、紫陽花の花が不機嫌な表情を見せたように思えた。「君もだったね、紫陽花さん!忘れてないよ、ありがとう。本当にきれいだな」藤塚は慌てて紫陽花たちにもお礼を言った。一斉に咲き始めてからほぼ毎日ここを通って眺めているが、彼女達も日毎に美しくなってきているように、藤塚の目には映った。「そうだよね、僕の妹、お姉さんってとこなんだから。無視したわけじゃないよ。君達も本当、僕をなぐさめてくれてありがとう」と、内心感謝の気持ちを花達にも伝えながら、庭を少し歩いた時だった。アパートの二階から大きい声が聞こえてきた。男の声である。なにやら興奮した感じで、怒声といった方が正確かもしれないぐらい荒々しい感じの声だった。はっきり中身まではわからぬまま、その声のする方を見て、藤塚は全身が凍りついた。「あの女性の部屋だ」間違いない。男が窓に背を見せているのが見える。その男が発する声であることは疑う余地が無かった。「何があったんだ?」藤塚は混乱した頭を落ち着かせると、状況を整理した。「彼女が誰か男性と喧嘩をしているのだ」当然ではあるが、そう結論を導いた彼だが、そうであればそうであったで何をなすべきか全く検討がつかずただ茫然としているしかなかった。彼は歯がゆさを覚えながら、アパートの二階で行われている二人の、おそらくは?喧嘩?をガラス越しに眺めているしかなかった。耳を澄ましていると、男性の怒声に混じって女性の鳴き声が聞こえてくる。「彼女が泣いているんだ」そう思うと、藤塚は悲しみと、さらにはなぜか怒りの感情が続いて沸き起こり、胸が一杯になって我慢できず、アパートの方へ走り出した。
「助けてあげなきゃ!」
 そう本能的に思ったのだ。無我夢中だった。するとアパートの入り口で男と出くわした。かなり興奮した様子だ。「さっきの男だ……」と思う間もなく、男は藤塚に一瞥を与えるとそのまま走り去った。藤塚はその後姿をなす術も無く見送るしかなかったが、男が見えなくなって、我に返ると、いやな予感が頭をよぎった。「まさか」彼はアパートの二階に上った。そして……。
 その後のことは実は彼も良く覚えていない。気がつくと彼は女性の部屋のドアを開けていた。後は映画の場面を見ているようであった。女性が窓の傍らでうずくまっているのが見えた。彼女が前のめりになって倒れこんでいる畳には包丁が投げ出され、周囲が血で染まっていた。
 何事が起こったのか?冷静に考えれば明らかなことであったが、混乱した彼の頭は状況をすぐには理解できず、彼は暫し茫然と立ち尽くした。沈黙の空間で、畳の赤い部分が徐々に広がりを見せていく。
 その沈黙を破るかのように、突然雨が激しさを増して窓ガラスを強く打ち付け始めた。その雨音が部屋の中にピシリピシリと強く響いた。大音響のように彼の耳には響いた。その音で彼は我に返った。激しい雨音が部屋の中に響いている。ガラス窓が割れるのではないかと感じるほどの強い雨であった。目の前に彼女が血に染まった畳に倒れこんでいるのが見える。これは夢でも何でもない!現実に間違いなかった。そう思った瞬間彼は叫んでいた。
「救急車だ!」
 そう叫びながら藤塚は部屋へ飛び込んだ。「電話だ!」本能的に、彼は部屋の中の電話を探した。しかしそれらしいものはない。彼は部屋を飛び出すと、隣の部屋のドアを激しく叩いた。
「助けてください!」
 その後のことは無我夢中でよく覚えていない。目の前で展開される出来事は、今度は早送りの映画のようだった。救急車のサイレン、担架を持つ救急隊員、運び出される彼女、事態は急速に展開した。しかし運び出される彼女が彼の傍らを通る時だけは、彼の目にはそれがまるでスローモーションの映画を見ているように映った。担架で運び出される彼女の表情がはっきりと見えた。何と悲しげでありながら、それでいて美しい表情だろう!時間が止まればいいなと藤塚は思った。その瞬間である、彼女が目を開けて彼に微笑を見せた、と少なくとも彼にはそう見えた。
「行かないで」
 と思った次の瞬間、彼は現実にまた引き戻された。「バン!」と言う音で、藤塚は我に返った。救急車の後ろのドアが閉
じられたのだ。彼女が救急車に搬送されたのであった。
 映画は幕を閉じた。
 救急車のけたたましいサイレンの音が鳴り響いた。藤塚は雨の中、一人アパートの庭に取り残されていた。傘もささず、ずぶ濡れであった。
「大丈夫だろうか」藤塚は経験したことのない事態に、ただおろおろするばかりで、今から何をなすべきなのか、そもそも彼女の身に何事が起こったのか全くわからないでいた。そのままそこに立ち尽くしていた彼だが、しばらくすると雨は元の小降りになって、さらについには完全に止んだ。「止んだか……」彼は大きくため息をつくと、空を眺めた。晴れ間がのぞいてきた。夕陽が差し込んでくる。まだ明るかった。続いて彼は視線を庭の紫陽花に向けた。雨に打たれた紫陽花は夕陽に照らされきらきらと輝いて一層美しく見えもしたが、花から滴り落ちる雨のしずくを見て、その表情が彼女の涙顔に重なった。すると彼の目からも自然と涙が滴り落ちてきた。
「大丈夫であってほしい」
 すると次には畳に染み込んだ赤い血の記憶が蘇った。すると、ますます涙が溢れ出した。どうしようもなく暫く涙を流れるままにしていた彼だが、こうなってしまってはもはや自分には何も出来ないのだと悟るとアパートを後にした。
 どうやって家にたどり着いたのか、よく覚えていない。思い足取りであった。彼の見るものすべてが白黒の映像と化していた。いやより正確に言えば、灰色一色であったと言うべきか?すべて色彩を欠いていた。そんな夢見心地の状態のまま、自宅へ到達すると彼はばたっとそのまま寝込んでしまった。彼女のことを思い出すと涙が出た。目を閉じると脳裏には畳みの鮮血が繰り返し現れ、彼を苦しめた。そのまま食事も取らず、床に入った彼だが、結局眠れないまま一晩を過ごした。

第十一章

 「彼女は無事だったろうか?」事件の後、毎日藤塚はそのことばかり考えていた。そして毎日アパートの前を通った。登校の際にも下校の際にもである。しかし彼女の姿は見えなかった。また、庭に面した彼女の部屋の窓にも必ず視線を向けたが、人のいる気配は無かった。カーテンが閉じられたままであった。翌日の新聞を見たが事件のことは出ていなかった。
 彼女のいない寂しさと彼女がどうなったのかという不安感を紛らすために、彼はそのまま路地を通り過ぎるのではなく、アパートの庭に降り立つと紫陽花の花を眺めて暫しの時間を過ごした。しかしそうすると事件のことが鮮明に思い出され、その辛さに涙ぐむという毎日であった。
作品名:紫陽花 作家名:ニンニン