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紫陽花

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 藤塚は軽い足取りで下校路に戻った。これほどの軽い足取りは久しぶりだ。彼は「またおいでよね!」という彼女の言葉を繰り返し心の中で反芻していた。「会いたい!」彼の頭の中は今や彼女の微笑みに占領されて、他の何事も考えられない状態であった。
 ほとんど夢見心地で彼は帰宅した。その夜は彼女の笑顔が夢に現れ、高校入学以来しばらく苦しい夜を過ごしていたことが嘘のように、その日の夜は良く眠れた。次の日、藤塚は久々に心地よい朝を迎えることが出来た。

第七章

 藤塚が生まれ故郷の大阪から東京へ引っ越してきたのは一九七〇年、彼が十三才の時である。中学一年になってすぐに引越しが決まった。事情は良く分からなかった。何でも、東京で事業に成功した親族が、父に東京で一緒に仕事をしてみないかと誘ったらしい。父も貧乏生活からの脱出を夢見たのだろう。親族の誘いに乗っての上京となったのである。
 生まれて始めての東京であった。新幹線で東京に着いた時の驚きは半端なものではなかった。「どうしてこんなに大きいビルばかり建っているんだ?」正直驚いた。大阪にいるころ、時に梅田の阪神百貨店に行くのは、彼の家の貧しい暮らしぶりから考えれば大変な贅沢であったが、それでも当時梅田の周辺には高いビルディングもなく、彼は都会と言ってもそれ位のイメージしか持っていなかった。
 それがどうだろう!目の前には延々と高層のビルが続いている。それも大きさは梅田の阪神百貨店、阪急百貨店の比ではない。
 街を走る電車にも驚いた。東京駅に降り立つと、実に色とりどりに塗りわけされた電車が、可愛いおもちゃのように走っている。大阪の環状線の暗いイメージとは程遠い、何か、子供心に夢にあふれた街のような気がした。「ここなら何か運命を変えられるのかもしれない」子供心にそう感じた、同じことを父も感じたに違いない。
 父は東京へ来てから、その親戚に任せられた仕事をそつなくこなし、藤塚家の生活は彼が高校一年の今では、結構豊かになってきていた。
 その頃、父と同じように一攫千金、立身出世を狙って数多くの人が東京を目指して列車に乗ってやってきたに違いない。藤塚は東京に住んで三年、高校生となって、活動する範囲が広がったことや、新聞部に入り社会の複雑な仕組みを学ぶようになったことで、この街がいかに多くの人々の夢をかなえたかを理解すると同時に、その反面、対極でいかに多くの人々を苦悩のどん底へ突き落としたかということも理解できるようになっていた。左翼思想に染まると言うことはなかったが、新聞部の活動を通じ、ある程度、左翼的な思想に理解を深めていった。そんな活字を通じての理解の対極に、彼が肌を通して感じた、自らの目を通じて見た社会の姿があった。
「彼女も夢を求めて東京へやってきた人だろうか?」
「彼女はこの東京で夢を実現出来たのだろうか?」
 高田馬場の安アパートに暮らす、夕方出勤、早朝帰宅の謎の女性に思いを馳せる藤塚は、そんなことに思いをめぐらせながら、「どうしたらまた彼女と会えるだろうか?」と思案しながらの毎日を送るのであった。

第八章

 「どうしても会って話をしたい」藤塚はどんより曇った梅雨空を眺めながら、六月も終わろうかというある金曜日の朝、自宅のアパートで弁当を自分で作り終えると、やはり片時も忘れられない彼女のことを考えながら、学校へ行く準備を整えていた。
 弁当を自分で作るようになったのには訳があった。
 両親は東京へ呼ばれる際、その親族から居酒屋の経営を任されていたので、東京へ来て以来、夫婦で年中無休で働いていた。帰宅はいつも深夜三時頃である。当然、藤塚が学校に行く朝はまだ二人とも寝ている。朝食は自分でパンを焼いて食べる。夕食は母が作ってくれた料理をフライパンやら鍋やらで温めなおすという日常を送っていた。それでも中学の時は学校給食があるのでまだ良かったが、高校になると昼食が弁当持参になった。これが辛かった。なぜかと言うと、クラスの殆どの級友が母親手作りの弁当を持参してくるのに、藤塚はいつも学校の購買部でパンを買うのだ。当然いつもパンばかり食べている藤塚は自分への級友からの視線を感じる。彼がクラスで孤独感を深めたのには、こんな些細なことではあるが、それでも思春期の多感な青年を悩ますのに十分なそういう出来事も関係していたわけである。
「貧乏からやっとのことで脱出していたと思っていたけど、まだまだ我が家は貧乏なんだ」夫婦共稼ぎと言うのは普通ではないのだ、ということに今更ながら気がついた藤塚であった。しかし彼はすぐに対処法を思いついた。調理に手馴れていた彼は、弁当を自分で作ることを思いついたのだ。東京へ来て以来、自宅では殆どの時間を一人で過ごさねばならなかった彼は、自然と、危機管理の対処法を自ら学んでしまっていた。「自作でも何でも弁当を食べていると好奇心に満ちた視線にさらされなくて済む」そう思って実践すると、級友からの視線をあまり感じなくなった。作戦成功であった。しかし同時に寂しい思いにも捉われた。「皆お母さんが家にいてお弁当を作ってくれるんだなあ」そう思うと級友達が羨ましくもあったが、その一方で彼はこうも考えた。「でもそうすると僕より貧乏な家ってのは一体、この東京でどんな生活をしているのだろう。僕と同じ立場の高校生はどんな惨めな毎日を暮らしているのだろう?」どんよりした空を眺めながらそんなことにも思いを馳せると彼は心が痛むのを感じた。いつもならこんなことを考え始めると、社会の不公平さとか貧富の格差とか、そういう方向に考えは進んでいくのだが、何故だろうか?今日は違った。思いは突然、紫陽花と彼女の方に飛んだ。突然あるアイデアがひらめいたのだ。
「そうだ日曜日の夕方に行ってみよう」
 我が家の両親も共働きだ。水商売だ。年中無休なのは、お店が秋葉原にあって、日曜日も客足が絶えないからである。しかし、たまに日曜日に両親の店に遊びに行くことがあるが、近くにあるスナックやバーといったお酒が専門の店は日曜日には殆ど営業をしていないということに気がついていた。ならば、
「彼女が勤めているところもそうなら、日曜日の夕方は休みのはずだ」
 そう自分で勝手に結論付けると、彼とて緒戦はやはりまだまだ未熟な高校一年生に過ぎなかった。社会の矛盾の問題は完全にどこへやらへと飛ばされ、心には晴れ間がさしてきた。「そうだ!この作戦で行こう!日曜日の夕方にアパートに行ってみればいいんだ!?」彼はそう心の中で叫ぶと、まだ休んでいる両親を起こすまいと、そっとドアを閉めて、いつものように学校へと向かった。「この作戦はきっと成功するぞ」そう考えると期待に胸がわくわくしてきた。そんな彼を励ますかのように、久しぶりに雲間から太陽が顔を出した。まぶしい太陽に彼は彼女の笑顔を重ねて思い出していた。まぶしい視線だった。
「明後日の日曜日には会える」なぜかそう確信出来た。「彼女はどんな人生を送ってきたのだろう?」わくわくした気持ちはおさまることを知らず、彼は軽い足取りで高田馬場へ向かうべく地下鉄の階段を一気に駆け下りた。

第九章
作品名:紫陽花 作家名:ニンニン