紫陽花
そう言うと、彼女は藤塚の前に進み出て、花の一つに顔を近づけるとその匂いを嗅ぐ仕草をした。彼の横をすり抜ける時に、香水の香りであろうか、何とも芳しい?女?の匂いに藤塚は一瞬めまい感を感じた。彼女は花から顔を離すと、藤塚には背を向けたまま話を続けた。
「でも、不思議、本当この花って。そうでしょ、こんなにきれいなのに匂いはそうでもないの……。ただ見られるだけでいいのかしら?それで満足なのね、きっと」
と、そこまで言うと彼女は藤塚の方を振り向いた。彼女を真正面から見ることになった藤塚は、相変わらず微笑を浮かべて彼を見つめている彼女に対し、どんな表情で対すればいいのか分からずただおどおどした表情で彼女と向かい合っていた。
背は藤塚と同じ位であった。細身の体で、髪は長髪。一言で言えば美人と言うべきか、整った顔立ちをしていた。赤のミニのワンピースがとても似合っていて、色白の肌がさらに目だって美しく見えた。その赤と白のコントラストが、さらには背景の色鮮やかな紫陽花の群生と新たな対照をなして、その強烈な視覚への訴えが藤塚をめまいに誘い込んだ。彼は金縛りにあったような感覚にうろたえながらも、ただその場に立ち尽くすべく、倒れないように必死に踏ん張っていた。
そんなこととは当然知る由もなく、そうしてただ黙っている藤塚に、ついに彼女もさじを投げてしまったようだ。
「それじゃあね。私は仕事帰りで疲れてるの。あなたは学校へ行く途中でしょ。遅れるわよ……。まだ若そうだから早稲田大学の学生さんじゃないわね。OO高校の学生さんかな?私服だからそうよね?OO高校の学生さんならきっと賢いんでしょ!頑張って勉強しなさいよ」
そう言い残すと彼女は再び藤塚の横をすり抜けると、そのまま背を向けてアパートの中に入っていった。古びたアパートに不釣合いな彼女の派手さにも、何か今起こっていることそのものが現実のことでないような気がして、藤塚は暫し夢見心地で彼女の後姿を見送った。
彼女の後姿がアパートの中に吸収されてしまうと、藤塚は我に返った。
「確かに遅れるよな!」
学校へ行く途中なのだ。遅刻はしたくない。彼は紫陽花たちに別れを告げ、学校へと急ぐべく路地を足早に歩んだ。
「また見に来よう!」
それは紫陽花が目的であることは勿論であったが、そう考えた瞬間、彼の心の奥深くであの女性の笑顔が渦を巻き始めた。「不思議な人だったな」藤塚は彼女にももう一度会えるものなら会いたいなと素直に感じた。「でも会えるだろうか?」そんなことを考えながら登校路を急ぐ藤塚の足取りはいつもより軽やかに見えた。学校に着いてからも、その日は一日あの彼女の姿ばかり脳裏に浮かんで来て授業に集中できない藤塚であった。
第六章
その日から彼は登下校の際は必ずそのアパートの前を通るようにした。紫陽花を見たかったことは勿論であるがあの女性ともう一度会えれば、という漠然とした願いもあったことはもはや自分でも否定するつもりも無かった。
ことあるごとに彼女の笑顔が思い出される。授業中も、部活中も。「会いたいな」と常に心の中で願う日が続いた。
しかし、その女性には会えない日が続いた。「確か、仕事の帰りとか言ってたよな……」朝に自分のアパートに帰ってくる女性で、派手な服装をしているとなれば、どんな仕事をしているものなのか大体は想像は出来た。「多分夜の仕事の人だろう」藤塚はそう考えたが、新大久保から新宿近辺で良く出会う、明らかに「水商売」とわかるタイプの女性とは違って、彼女は何とも言えぬ穏やかな優しい表情で、「水商売でなければ何の仕事だろう?」と、そんな謎めいたところも藤塚の心を捉えて離さない。一見した所明るい女性のように見えて、「ただ見られるだけでいいのね、それで満足なのね」と語った、彼女の語り草が何とも寂しそうなように思い出され、そんな暗い影が見え隠れするところが謎めいて、藤塚の心を完全に捕らえてしまっていた。
「紫陽花みたいな人だ」
毎日出迎えてくれる紫陽花を見ながら、藤塚はそんなことを考えるようになった。派手なようで落ち着いても見える。楽しげに美しさを誇っているようで実は寂しげにも見える。見る人を包み込むように和ましてくれるようでいて、実は「本当はね、私は寂しいの。お願い、私を優しく包みこんで下さい」とひっそり語りかけているようにも見える。
「紫陽花って本当不思議な花だ」
藤塚は毎日このアパートの庭を訪れるうち、いつしか紫陽花の花に彼女の姿を重ね合わせながら鑑賞するようになっていた。
そんな「彼女に会いたいな」という藤塚の思いが通じたのであろうか。一週間ほどたったある日の夕方の下校時であった。
いつものように路地から階段を使いアパートの庭に降り立った彼は、アパートの二階のある一室の窓から自分に向かって手を降っている女性の姿を確認した。「彼女だ」そう思うと嬉しくもあったが、とっさにどうしたらいいか分からず、彼はぺこりとお辞儀をした。すると彼女がそんな彼の動作が可笑しかったのだろう、にっこり微笑みをこちらに向けるのが見え、次には窓から姿を消した。「あっ」と思ったが、藤塚はどうしたものか分からず、そのままその場に立っているしかなかった。するとアパートの玄関から彼女が出てきた。
「こんにちは!学生さん。また会ったわね」
そう言いながら彼女は彼に近づいてくる。藤塚は顔が真っ赤になってくるのが自分でも分かって、その場から逃げ出したい気持ちであったが金縛りにあったように体が動かず、口も開けない状態であった。彼女は今日は前と違って、一転、清楚な感じの落ち着いた濃紺のワンピースに身を包んでいた。化粧はやはり薄めで、今から「水商売の」仕事に行くにしては控えめないでたちとも言えた。ただ彼女が近づいてくるとやはり香水の香りが漂い、その圧倒的な女性の匂いに藤塚は動悸で胸が苦しくなるのを感じた。黙ったままの彼に、彼女は優しくこう語りかけた。
「変わった人ね。全然喋らないのね……。私が怖いのかな?何にも怖くないわよ!まあ、いいや。私は仕事だからもう行かなくっちゃ。じゃあね」
と言うと、彼女は藤塚の横をすり抜け、路地へつながる階段まで歩いていった。藤塚は呆然とそれを見送るしかなかったが、すると彼女は階段の途中で急に藤塚のほうを振り返ると、にこりと微笑んで彼にこう告げた。
「またおいでよね!今度はゆっくり何かおしゃべりしようね」
そう言うと再び背を向けてそのまま彼女は路地の右手へと立ち去った。彼女を見届け終えると藤塚の心の緊張は漸く次第にほぐれていった。藤塚は今の自分が紫陽花に魅了されているのか、それとも彼女に魅了されているのか?常に心に問いかけていたが、今、彼女から優しい言葉を最後に投げかけられたのが何ともうれしく、次第にすがすがしさが心に満ちてくると、もはや答えは明白だと悟った。
「これはやっぱり……」
?恋?だ。そう悟った藤塚は何かほっとした思いで、今や体の緊張もほぐれた。彼は大きく背伸びをした。そして紫陽花の花の一つにこう語りかけた。
「また、来るよ!」