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紫陽花

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 学生運動は完全に下火となった時代であったが、それなりに火はくすぶっていた。過激派と呼ばれる連中がここかしこに拠点を設け、それなりに組織活動を行っていた。左翼を支持する人たちもまだ多くいた。学者、知識人にその傾向が高かった。国鉄労働組合は毎年の如く?スト権スト?なるものを繰り広げていた。国民の多くが「日本列島改造で経済大国となる」という、時の首相のスローガンを信じ、高度経済成長の恩恵の元、日々確実に豊かになっていく生活水準を実感し、毎日の暮らしを謳歌していた。ただ国が全体として豊かになっていくということは、国の中のひずみが大きくなっていくことでもあった。そのひずみの受け止め役として、これらの左翼運動がそれなりに機能し働いていたというわけである。実際、藤塚は高田馬場から新宿までの街歩きを通して、何となくそういう社会のひずみを感じとっていた。身近な所で言えば、彼の高校の隣はお嬢様学校として有名な女子高校があったが、道路を挟んで反対側の街の一角には、今にも崩れそうな古い家が立ち並んでいる路地があって、そこではみすぼらしい格好をした子供達が遊んでいる光景を目にした。「そういえば中学の時の同級生にも一人貧乏な家の子がいたな」藤塚はその学友の家に行ったときに、時分の家もそれなりに貧乏だと思っていたが、彼の家に比べればまだ豊かな方だと実感して帰ってきたのを覚えている。山手線の中の新宿区内でもそういうところはあちらこちらにあったわけである。
 ただ中学の時にはそれを、社会のひずみとして認識していなったわけである。それがこの放課後の路地裏探索により、彼は「よく分からないけど何かが間違っている」という認識を深くさせた。そんな彼の目に入ったのが、赤旗の翻る新聞部のボックスであったわけだ。この赤旗は、単にかってはこのボックスが学校での学生運動の拠点だったなごりということらしいと、それは後で分かったが、部そのものも新聞の定期発行も無論活動の中心だったが、それと合わせて、左翼思想の勉強会も重要な活動であった。それなりに先輩達、特にOBは左翼思想の持ち主だった。
 藤塚は最初は興味本位で覗いただけだが、先輩から、さらにはOBの先輩からいろんな話を聞かされるにつれて、彼は社会を正しく見る目を養うということの重要性を認識するようになってきた。すると何となく体感していた今の社会のひずみを、理論的にも少し理解できるようになってきていた。OBの先輩から「私達が活動していた頃はいつ機動隊が学校内に乱入してくるかそれはもう毎日が不安だったのよ」と聞かされて、当初はこの赤旗の持つ深い意義が分からなかった彼だが、活動を通じて自分が何をすべきなのか漠然と見えてくるに従って、この赤旗がなぜか誇らしく思えてきて、新聞部活動はいつしか彼の新大久保探索と並び、彼の青春時代を支えるのに必要不可欠なものとなってきていた。「君達はスイカになれ」とOBからいつも言われた。外見は安全な緑色でも、中身は真っ赤赤になれということだ。OB達は連日の如く部室にやってきては藤塚たちにマルクスレーニンの著作について熱く語った。藤塚は新宿の本屋で社会主義哲学経済関係の本を買いあさっては読み通すと言う毎日を過ごした。しかし皮肉なことにそんな彼の行動、言動が、「あいつは少し変わっている」と、クラスの中では彼の孤立感を結果的にはますます深めてしまったのでもあった。充実感、満足感もあり、しかしその対極には疎外感もあり、寂寞感もあり、藤塚は心の分裂を感じながら、それでも何とか学校生活を過ごすと言う毎日を送り続けるのであった。

第五章

 六月も終わりに近づいた。月曜日、朝、藤塚は高田馬場の駅に降り立った。長く続いた雨が今日は一休みで、青空が広がっていた。「さて今日は久しぶりに路地を通るか」藤塚は登校路を大通りから例の路地へと歩むことにした。というのもとても狭い路地であったため、傘をさしての歩行が厄介で人とすれ違うのも大変だったので、梅雨の季節に入ってからはそこを通らないようにしていたからである。大通りの歩道はアーケードがあって、傘をさす必要が無かったということも一因ではあった。また、彼の憂鬱な心情がこの時期にはかなり改善していたということも、無論要因としてあったかもしれない。いすれにせよ久しぶりの路地裏との対面であった。
「何も変わらないな」
 懐かしの裏通学路であった。いつもの古ぼけた塀、見慣れた家の玄関、電柱に貼られたチラシが彼に微笑んでくれているようにも見えた。
「まあ、ここに俺の友達が俺を待っていたってわけか」
 そんなことを思って藤塚は苦笑いをした。「御免な。これからはなるべくここを通るようにするよ」と、彼らに挨拶を返しながらどんどんと見慣れた道を進んでいった。藤塚はほっとしったような、癒されたようなそんな心持で足取りも少し軽くなったように感じた。そんな路地もいよいよ終焉に近づいた。「そろそろあのアパートだな」路地から一段低地に広がるあのアパートはどう迎えてくれるだろうか?そんなことを考えているうちにアパートの前までたどり着いた。視界が開けた。目にアパートの庭が飛び込んできた。
「あっ!」
 彼は感嘆の声を上げた。例の殺風景な庭が、今日は全く違う表情で彼を迎えていた。
「何てきれいなんだ」
 紫陽花の花が庭一面に咲いていたのである。あの雑然とした庭が、今や色とりどりの紫陽花に彩られ、古ぼけたアパートとは全く対照的な華やかさで彼の目の前に広がっていた。
 藤塚は思わず路地からアパートへと続く鉄製の階段を下り始めた。紫陽花の花に吸い寄せられるかのように彼は庭へと降り立った。近くに寄ると紫陽花の美しさは一際際立って彼の視覚を刺激した。彼はそのまま暫し時を忘れて佇んでいた。
 今までにこの花を見たことが無かったわけではない。しかしこれほど一面に咲き誇る紫陽花の群生を見たことは無かった。よく見るとその一つ一つが微妙にその表情を変えて彼を出迎えてくれている。自己主張の強そうなものもあれば、ひっそりと美しさを隠そうとしているものもある。包容力豊かに彼に迫ってくるものもあれば、いかにも頼りなげで思わず抱きしめてあげたくなるものもあった。「姉のようでもあり妹のようでもあり……」とふと藤塚は感じた。男二人兄弟で兄しか持たなかった彼にとっては、そのようにも見えたのも決して不思議なことではあるまい。孤独感を依然として払拭できない彼の心に、この圧倒的な美の乱舞は大きな安らぎを与えてくれた。「いつまでもここにいたいものだ」とそんな考えが脳裏を横切った、その時であった。背後からの声に彼は我に返った。
「どうかしたの?」
 女性の声だった。藤塚は驚いて振り返ると、そこには年のころ二十台の後半であろうか、細身の女性がにこやかな表情で彼を見つめて立っている。
「……」
 咄嗟の事で言葉の出ない彼の心のうちを知ってか知らずか、彼の返事を待つことなく彼女は一方的に言葉を続けた。
「きれいでしょう、ここの紫陽花。私も大好きなんだ」
作品名:紫陽花 作家名:ニンニン