妖怪たちの八百万
「ねぇ、坊や。」
どこからか声が聞こえた。ぼんやりとする頭をやっとのことで働かせ、それが今までの夢にはなかった展開であることに気付く。この声はこの夢の中で聞いたことがないものだった。この声は知らなかった。僕はゆっくりと姉を向く。姉は相変わらず無邪気だった。姉の背後に誰かがいた。姉から視線をずらし、その誰かを視界に捉えた。
黒を基調とした寝巻き姿にさらりと流れる黒い髪。僕よりも年上に見えるくっきりとした顔立ち。年の頃は二十代の中頃だろうか。そこには黒い瞳で僕を見据える女性が立っていた。
「私は空也。あなたの味方。あなたの家族を焼き払う悪い奴を追い払いにきたの。」
姉の背後に立つ人物はそう言って、炎の向こう側に立ち尽くすあいつを指した。空也と名乗った女性に言われるがまま、僕はあいつに振り向いた。揺れる炎の向こうであいつは動かない。
僕はこの女性が何を意図しているのか掴めなかった。すると女性は腕で周りの状況を指し示す。どうやら炎に囲まれているこの状況から救い出すということらしい。
「このままではあなたの大切な家族まで焼けてしまうわね。それはとても悲しいこと。それはとても苦しいこと。」
女性が椅子に座ったままの僕に話しかける。女性の黒い瞳には僕が映っていた。
「それは嫌。家族がいなくなるのは嫌。誰か僕の家族を救って、とあなたは考えている。」
女性の声は囁くように微かなものだったが、聞き取りづらいということはなかった。むしろ耳元で発声されているかのようにはっきりと音が伝わってくる。僕は女性のその言葉に安心していた。まるで、その女性の声を聞くと安堵感が生まれるように予め決められていたかのように僕は気を緩める。
「あなたの目の前にいるあれがこの炎の原因。あれをここから追い出せばあなたとあなたの家族はいつもでも幸せに過ごせるわ。あなたはあれをここに入れてはいけないの。分かるわね。そう、きっとあなたはそれを理解している。」
女性は炎の壁の向こうの存在を指してあれと呼んだ。僕は女性の言葉の意味を抵抗なく受け入れる。女性が言うように、あいつが僕を苦しめていることを僕は理解していた。あいつを追い出さなくては。その一念が僕を支配していた。
「坊や、私が助けてあげるからね。」
再びそう言うと女性は片腕を肩の高さまで引き上げた。手のひらを上に向けて広げている。その指を小指から順にゆっくりと閉じていく。すると、女性の手が拳に近づくにつれ、炎の勢いが見る間に収まっていく。指が全て閉じられる頃には食卓に着いた家族と僕、黒髪の女性といまだその背に炎を背負うあいつだけが残った。
「もう大丈夫。私があなたを守るから。」
女性の気配を身近に感じた。僕の視線は激しく燃焼し続ける小柄な背中に釘付けだった。
「あれも邪魔ね。」
女性は指が閉じきった腕をそのまままっすぐ下ろした。すると、目の前のあいつは紫の煙に姿を変えて流れ去った。ずっと僕を苦しめていた、あいつ。その終わりがこんなにも簡単なものなのかと思った。
「これで安心ね。あなたとあなたの家族はもう大丈夫。」
僕は家族のことを思い出して、食卓に向き直った。何も変わっていなかった。まるで、僕がいないかのように当時の姿のままの家族は会話を続けていた。もう安心だ。女性に言われるがままに心に平穏が訪れた。安心だ。
女性が席に座る僕の隣に並んだ。先ほどよりも距離が近い。この女性は僕を守ってくれる。僕の家族を守ってくれる。女性は僕の耳元に顔を寄せた。息遣いを感じるほどの間合い。女性は言う。
「わたしはあなたを守った。あなたの希望を叶えてあげた。」
女性は言う。
「だからあなたもわたしの言うこと聞いてくれるかしら。」
女性は言う。
「あなたの家族を食べてもいい?」
僕は言葉の意味を捉えることができなかった。口角を引き上げて女性が笑う。
団欒の食卓を中心とした少しの空間。そこに存在する父と母と姉と僕と黒い女性。それ以外は何もない。周りは見通すことができない闇がどこまでも続いていた。僕は今安心しているはずだった。僕を苦しめ続けていたあいつがいなくなったから。僕に不安などあるはずがなかった。
「ねぇ、坊や。食べてもいい?」
鼻先に女性が顔を寄せていた。
僕は家族を見た。
そこには当時のままの家族の姿があった。
何も心配することはない。
何も心配することはない?