妖怪たちの八百万
保健室にはベッドが二つある。一つは真っ当な目的のため、つまり、体調不良の生徒のために使用されていた。もう一つのベッドには、保健室の主が寝ていた。
河東先生。保健医。開けば迫力のある切れ長の目尻も今は閉ざされている。ざんばらなショートカットが枕に広がっていた。
「もうっ!!河東先生、体調が悪いって生徒が来てるんですよ。保健の先生がそんなんでどうするんですか。」
飯盛先生が可愛く怒る。飯盛先生は、河東先生が横たわるベッド端まで近づいて掛け布団をめくった。
「おお、飯盛先生。なんだ、もうお昼か?」
「違いますよ。井関くんが体調悪いって。寝てないで診てあげてくださいよ。」
「ほう、どれどれ。」
河東先生はベッドから上体だけを起こして、こちらを向いた。まぶたが開けきらない眠たげな視線が僕を捉える。数秒の間。河東先生は糸が切れたかのようにベッドに倒れ込む。
「確かに顔色が悪いな。まぁ、こんなとこで寝てても何も変わらん。早く家へ帰ってゆっくり休むことだな。うん。」
「えー、早退ですか。先生ちゃんと診てくださいよ。」
これは飯盛先生。
「井関くん、まだ無遅刻無欠席なんですよ。早退したら皆勤賞がもらえなくなっちゃうじゃないですか。」
「そんなの知らんよ。体調が悪いんだったら、無理せず休むのが一番だ。それにお前皆勤賞狙ってるって面じゃないだろう。お前からも先生に言ってやれ。もう帰りたいってな。」
体調とは別の理由で帰りたかったが、そんなに簡単に早退するわけにもいかないだろう。少し横になれば良くなるかもしれない。もっとも横になれる場所はすでに埋まっているが。
「もう、河東先生ったら。ごめんね井関くん。私、河東先生には勝てませんでした。」
あれ、諦めちゃうの?早退してもいいの?
「どうする井関くん。早退、する?」
それはしてもいいならするけれど。体調が悪いのは事実だし。
「結構簡単に早退って決めちゃっていいんですね。少し休めば良くなる程度なら許されないのかと思ってました。」
「あ、いや、そうなんだけどね。一応保健の先生も早退を認めているみたいだし。」
飯盛先生もさすがに苦笑い。僕は溜息を堪えることができなかった。
「じゃ、早退することにします。最近ちょっと疲れが溜まってるみたいなので、今日は自宅でゆっくり休みたいと思います。それに、ここでは休息すらできそうにありませんし。」
精一杯の皮肉を込めて河東先生に言う。飯盛先生から視線を外して、河東先生を見遣る。河東先生は聞いていなかった。布団に頭まで包まって聞こえなーいのポーズ。
「はぁ。」
再度、溜息をついた。
「ごめんね。それじゃ一旦教室に戻って帰る準備をしてきてね。」
と言って、飯盛先生は保健室を出ていった。さて、僕も教室に戻って荷物を整理しなくては。保健室の扉に手をかけたその時、
「井関。」
ベッドから声が聞こえた。見ると布団から頭だけ出して河東先生がこちらを見つめていた。自然目が合う。少し緊張した。
「本当に大変だったら私を頼れよ。……まぁでもどうにでもなるだろぉけど。」
何が、と思ったが疑問を口にすることはできなかった。視線の先では、すでに河東先生の頭は見えなくなっていた。