妖怪たちの八百万
女性がゆらりと姉に近づいた。僕の隣に座る姉は女性には気付いてないようだった。それどころか僕にも気付いてはいない。
「さて、いただきます。」
女性が言った。すると、姉の身体にわずかな変化が生じた。姉の身体から紫色の煙が立ち上り始めた。女性はそれを満足そうに見やると指でくるりと円を描いて紫煙を絡めとった。女性が口を開ける。煙の巻きついた指を口へ運んだ。
「姉ちゃんには何もしないな。」
「へ?」
僕の言葉に女性が間の抜けた返事をする。唇に挟まれた指の動きが止まった。
もうほとんど正気を保てない僕が言葉の意味を考えて発言することは不可能だった。先程の言葉は無意識に出たものだ。姉が何かされている。姉が危ない。それだけを感じた。僕はこの女性が白髪の少女から僕たち家族を守ってくれる頼もしい存在だと確信しているが、これだけはどうしても確認しなくてはならなかった。姉は、家族は安全なのか。
「ぼ、坊や、今なんて言ったの?もう一度言ってもらえる?」
「姉ちゃんに何かするのかと聞いたんだ。」
頭は働かない。目は焦点を結ばず、中空を彷徨う。しかし、口をついて言葉が出た。自分がなぜこのようなことを口にするのか自分でも分からなかった。
「嘘。なぜこんな……。とっても時間をかけたのに!!もう私に反抗なんてしないはずなのに。意志なんて、無いはずなのに!!」
苦しげに女性は頭を抱えた。食卓を囲む炎が大きく揺らいだ。
「だから言ったろうがよ、人の心は幻影なんぞじゃ操れねぇ。」
声は灼熱の向こう側から聞こえた。少女の声に力がこもる。
「人間は一人であっても孤独ではない。これまでの出会った人間が記憶の中にいるからだ。貴様はこの小僧一人だけを誘惑し、精神を縛った。それは確かに成功していたんだろう。だが、こいつの記憶の中にいる人間のことまでは考えが及ばなかった。それが貴様の敗因だ。ふん。いよいよもって貴様は終わりだ。どうした、炎の勢いが足らねぇな。この程度の火ではあたしを隔てることはできんぞ!!」
炎の壁を突き破って白髪の少女が姿を現した。全身に火が回っている。しかし、苦しむ様子も見せず、こちらへ向かう。
「おい、お前。そいつはお前の味方じゃねぇ。あたしが本物の味方だ。」
僕には相変わらず声が届かない。
「聞いちゃいねぇな。ふん、まあいい、聞いてねぇんだろうが聞きな。そいつはお前の家族を害するものだ。」
意識に一筋の光が差す。
「獏っていってな、そいつは人の夢を喰う。夢と一緒に人の記憶まで喰う奴だ。ここでお前の姉が喰われるってことはお前の中から姉の記憶が消えるってことだ。」
少女の言っていることは分からない。しかし、姉が危ないことは理解できていた。僕はもやのかかる意識で言った。
「姉ちゃんが危ないのか?」
少女は応える。
「そうだ。だが、あたしが助ける。あたしを信じろ、あたしに力を預けろ。」
僕は混乱していた。
「ちょっとぉ。もう少しで食べられるところだったのに。邪魔しないでよ。もう出て行きなきなさい。」
髪を乱した女性が少女へと詰め寄った。少女は引き下がらずなおも僕に言い募った。
「あたしを信じるならあたしの手をとりな。そして、呼べあたしの名を。あたしは環だ。」
白髪の少女、環は僕に近づいて、手を差し出した。屈託のない笑顔が僕に向けられていた。
「やめなさいったら。」
女性も同様に僕へと手を伸べる。この手は僕を救うのか。
女性を信じろと警鐘を鳴らす頭に相反するように僕の手は環の方へと伸びていた。
僕を見る少女の笑顔がとても優しかったから。
僕は悪夢の手をとった。