激しくも生き、されど終焉は … 穏やかに
時は1860年(安政7年/万延元年)。
その三月三日の桃の節句。村山たか女の女の勘が当たってしまったのだ。
井伊直弼・四十五歳は、桜田門外で水戸藩の十数人の刺客に襲われた。そして暗殺されてしまった。いわゆる桜田門外の変が起こった。
長野主膳はこの桜田門外の変を知り、覚悟を決めた。
それ以降、直弼の遺志を継いだが、尊壌派の天誅の名での佐幕派要人の暗殺が増えた。そして危険を感じ、京都から彦根へと身を引いた。
しかし、その八月八日、家老・岡本半介により投獄されてしまう。
そして1861年(文久元年)、二月七日。長野主膳・四十六歳。主君を惑わせたと、彦根で斬刑に処せられた。
その辞世の句がある。
『飛鳥川 昨日の淵は 今日の瀬と 変わる習を 我身にぞ見る』
桜田門外の変が起こり、村山たか女・五十一歳は身を隠した。
そして、その変から二年の歳月が流れた。もうこの世には直弼も長野もいない。
1862年(文久2年)、たか女・五十三歳。息子・帯刀(たくわき)と洛西一貫町の隠れ家に潜み、暮らしていた。それが長州・土佐激徒に見つかり、捕まえられてしまう。
そしてその時、たか女にとって最大の不幸が起こった。息子・帯刀が、たか女の目の前で、一刀両断にばっさりと斬られてしまう。
その後、村山たか女は引っ張られ、三条河原で‘生き晒しの刑’。三日三晩晒されてしまう。
しかし、これが──本来なら死罪。女の身により刑が減ぜられ、命拾いをすることになった。
制令にはこう残っている。
『この女、長野主膳妾にして、主膳奸計を助けたる者、女子の身なれば死罪一等を減ず』
村山たか女は女スパイらしく毅然と‘生き晒しの刑’に耐えた。そして三日目に助けられたのだ。
その後、金福寺(こんぷくじ)に入り、妙寿(みょうじゅ)と名乗った。そして、ここで十四年の歳月を過ごした。
1876年(明治9年)、村山たか女・六十七歳。
その激しくも生きた波瀾万丈な生涯。されど終焉は穏やかに、女の一生を終えたのだった。
金福寺にて死亡。墓は圓光寺(えんこうじ)にある。法名は「清光素省禅尼」と言う。
作品名:激しくも生き、されど終焉は … 穏やかに 作家名:鮎風 遊