祖父の遺産
森本弁護士からの連絡はいつも春子にとっては歯がゆいものだった。調査が遅々として進まないからだ。
ひとつだけ解ったことは、銀行と県の間でなにか約束事があり、そのためにこの契約の履行について不明瞭な問題が表面化しているようだ、と言うことのようだった。
「約束事?不明瞭なこと?それってなんですか?」
春子は弁護士に聞いたが、
「やっとそれだけ聞き出したんです。それ以上はまだ解りません。もう少し待っててください。」
と言うばかりだった。
初夏を迎えた茅野にもカッコウが鳴き始めた。
投資顧問会社の高橋亮二から、
「白馬へ行くので寄らせてもらう。」
と、辰男に連絡がはいった。
辰男は借り主になっていた四千万円の事は気になっていたが、たまに連絡を取って話をする時も高橋は返済を迫ることはなかった。
春子と結婚することを話した時に相続財産のことも話してあったから、高橋は安心しているのだろうと、人の良い辰男は勝手に解釈していた。
辰男は春子とインターの近くのレストランに行った。駐車場にはもう高橋の白いハマーが来ていた。
広い店内の一番奥の席にから手を挙げて高橋が合図をした。
「明日、白馬のマンションを見に行くんだ。お客さんの持ち物の処分を依頼されてね。会社の人たちは先に白馬へ行っててね。もう滑っている頃だよ。」
相変わらず、景気が良さそうだ。
辰男は経過を話し、査問委員会の事にも少し触れた。
「入金されたら面白い未上場株があるからこの株を買ってくれない?と言うよりも四千万円でこの株を買ってくれれば、あの四千万円は無しにするから。お宅も資産として残るから。
この株は今の評価でも三倍はあるから、損はしないしお互いハッピーだと思うよ。長期に持てる人でないと今はダメなんだこういう株は。考えておいてね。」
そう言うと、
「いろいろと手間取っているのなら、うちの弁護士を紹介しようか?」
と、有名な弁護士事務所の名前を言ったが、春子はとっさに
「前からの、母が頼んだ弁護士さんがいるから。」
と、断った。
時間だけが経っていく。二人には、まだ何が起きているのか解らなかった。
母も、「どうなっているのか?」と、口にするようになった。
春子は、財務局の篠原に、契約の担当者である西条と連絡を取ってくれるよう、再三申し入れをしていたが、ようやくお盆が過ぎた頃、「年内には帰任します。」との連絡がはいった。
同じ頃森本弁護士から報告があり、
「銀行の正式の返事は、『依頼された業務は行政の都合により返上しました。』と言うことでした。理由は、あくまでも『行政の都合』だそうです。」
と言う話しであった。
援助をして貰っている岡田も、『確認しておきたいから』と言って、二人を道場へ呼んだ。
「はっきり聞きたいんだがこの話は本当なんだな?お父さん名義の土地が本当にあるんだな?三十町歩というと九万坪だよ。」
辰男は必死で岡田に説明をした。
春子は覚めていた。そして査問委員会でので見せられた写真のことを思い出していた。
「岡田も阿部と同じ穴の狢なのか」
と思ったが、お世話になっている以上無碍には出来ないが、これ以上細かなことを話すわけにはいかなかった。
それからは、岡田からの「どうなっているのか?」という問い合わせが頻繁になってきた。辰男はその都度道場まで出向いて岡田のご機嫌を取った。
八ヶ岳の山頂に初雪が聞かれるようになった頃に、篠原から連絡が入った。
「西条さんが帰られました。お会いしたいと申しております。つきましては来週改めてご連絡します。」
と、一方的に言って電話は切れた。
「役人て、いつも勝手だわ。」
春子はひとりつぶやいた。
「何してたのよ! どうなっているのよ!」
名古屋駅のホテルのコーヒーラウンジの周りの客が一瞬注目した。何年ぶりかに会った西条に、春子が激しい言葉を浴びせたからだった。
開発局勤務の後、ヨーロッパのある政府代表部に勤務していた西条は、篠原からの連絡で事の重大さを知り、無理を押して日本へ帰ってきたのだと春子に話した。
「お母さんはお元気ですか。私はお母さんとの約束を必ず守りますから、信じて協力して欲しい。」
そして西条は、『篠原から報告は受けているがまだ不明なことがあるから、しばらく時間を貸して欲しい』と言うと、『見せたいものがあるから、これから同行してください。』と、春子を伴って、駅にほど近い銀行へ行った。貸金庫から契約書を取り出した西条は、
「これが契約書の正本だからね。いいですか、あなたのお母さんから預かったものですから私の責任においてこれからも守ります。いいですね。」
と、念を押した。
春子は西条がそこまで言う本当の意味を未だ知らされてはいなかった。しかしなにか大変なことが起きているらしいという事だけは感じ取っていた。
銀行から出て次には、名古屋城近くのホテルのロビーで篠原と合流した。
「その節は大変失礼しました。私は西条と共に動きますからよろしくお願いします。」
と春子に向かってお辞儀をしながら言うと、西条向かって小声で言った。
「もう名古屋でお会いするのは、危険な気がします。」
「そうか。分かった。今日は顔合わせと云う事でいいかな。」
と言いながら、
「これから彼は大切な役割を負うことになるからよろしくな。」
と、改めて春子に言った。
「よろしくお願いします。」
春子は以前、舌鋒鋭く自分を糾弾した篠原に向かってつっけんどんに言った。
「連絡するまで田舎で待ってて欲しい。お母さんにくれぐれもよろしく伝えてください。」
そう言うと西条は年末売り出しの旗の立った街中を名古屋駅まで送った。
暮れも押し迫ったある日曜日、春子は一人で内幸町のビルの一室にいた。西条からの連絡で、急遽上京したのだった。辰男も『一緒に行く』と言ったが、『辰男さんは、この件にはまだ係わりがありませんから』と西条から拒まれた。
春子が査問委員会にかけられた原因が辰男の行動にあったことは明らかであったから、西条は辰男を遠ざけたのだ。
「契約違反に仕立て上げられた。査問委員会での証言が逆手にとられて手続きは終わってる。」
「ええっ!」
春子には、西条の言葉は理解不能だった。質問することさえ出来なかった。
同席していた篠原は、窓の外を見ながら、
「私の想像を遙かに超えたことが起こってます。」
と言うと、あらためてソファーに座り直した。
春子は篠原に
「あなたはあの時どうして私に厳しく言ったの。」
「僕は何も知らなかったのです。本当に何も。だからあなたの行動が、本当に契約違反の行為だと思って業務を遂行したのです。」
篠原に嘘はなかった。
ドアがノックされ、背の高い紳士が入ってきた。春子はまた驚いた。査問委員会にいたメンバーの一人だったからだ。
「小野と言います。その節はどうも。」
春子に向かってそう言うと、あらためて西条が紹介した。
「彼は内閣府に所属していて、我々と行動を同じくしているから承知しておくように。」
そう言うと、三人は話を始めた。春子には分からない言葉ばかりだった。