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祖父の遺産

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春子は、なにか得体の知れない恐ろしさを感じていた。

 三人は遅いランチを取りながら、相談した。春子は『他人事ではなくなったな。』という岡田の言葉に安堵と不安の入り交じったものを感じていたが、今は頼りにするしかなかった。
 辰男の借り入れの返済を、証書が換金できるまで延期することと、当面の生活費の援助を求め了解をもらうとようやく二人に笑みが戻った。
「ところで、ここの道場の『仙道庵』の教義は何なの?」
辰男が、ぶしつけに聞いた。
「老子道徳経だよ。タオだよ。」
「なにそれ?」
春子が、混ぜっ返した。
「猫の境地になる事だよ。フフフッ。」
また、含み笑いをすると、岡田は話し始めた。
「老子はね、西洋でも愛読者が多くて、かのシュパイツァー博士も読んでいたそうでね。佐藤栄作総理が、ケネディー大統領と初めてあった時に、老子の一節を持ち出して親しく話したんだ。ケネディー大統領も馬鹿じゃなかったんだね、ハッハッハッ。その甲斐があって、やがて沖縄返還に繋がったんだよ。老子道徳経のおかげだね。」
 岡田は上機嫌だった。

「ところで、契約した時の担当者には連絡ついたのかな?」
岡田が聞いてきた。 
「まだ連絡取ってないわ。弁護士の方からの連絡待ちよ。」
春子は、そう言って
「阿部さんのことは私の家のこととは関係ない、と云う事でいいのよね?」
と、岡田に念押しをした。
「なかったことにしてくれ、と向こうから言ってきたんだ。何もな。それでいい。これからも何もない。これからもな。」
岡田は自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言った。
三人はまだ、何が起きているのか知る由もなかった。

 森本弁護士の問い合わせに、帝都銀行からは内部で調査中という返事だという。
 時間が、無為に過ぎていく。


 半月ほど経ったある日、整備局から母宛に郵便が届いた。
 『お尋ねしたいことがあるので、来局願いたい』との内容だった。
 母はその封書を渡しながら、春子と辰男に行って欲しいと話しをした。
 春子は書かれていた部署に電話をして、
『娘の私が行くがいいでしょうか。』
と確認をしたが、電話の相手は、
『ご本人宛に差し上げてありますので、ご本人にお願いします。』
と、慇懃に応対した。
 春子は母の体調を説明し、夫も同行したい旨告げたが、
『あくまでもご本人が・・・』
と、言い張った。が、結局
『それでは、とりあえず担当者を伺わせますから』
と言って電話が切れた。
 翌々日、黒塗りの車で若い役人が来て、財務局の管財部の篠原と名乗った。
 辰男は留守をしていて母と春子が会った。
 結局相続人である春子一人で来ること。それに母の実印の委任状を持ってくるようにと用紙を置いて帰った。用件については聞いても
『お聞きしたいことがあるようです。おいでになった時にまた。』
と言うだけでそれ以上は答えなかった。
 『委任状を届けるためだけに、わざわざここまで来たのか?』
 帰宅した辰男は、話しを聞いて訝った。


 四月の終わりに、春子は中央線で名古屋へ向かった。
木曽谷の緑がまぶしかった。
 通された部屋は、いくつかのドアを通り、物々しかった。先日自宅へ来た篠原と年配の人が二人いた。
 持ってきた委任状を確認した後、年配の一人が春子に写真を見せた。
「先日、町役場と法務局へ来た人です。ご存じですか?」
 岡田の道場で会った、阿部の会社の青年だった。とっさに春子は
「知りません。」
と答えた。
「なんなんですかこれは?説明してください。」
 春子はだんだんと声が大きくなっていった。
 阿部氏の会社の青年が役場で、今回買収される土地の調査をして、法務局で公図と謄本を請求したという。
「以前に、書面で説明した通り、当該地の登記簿は現在封鎖してあります。何人といえども閲覧も、謄本請求も出来ません。それに、なぜ彼らが調査に来たのかと言うことですが、心当たりはありますか。」
 まるで取り調べられている様だった。
「いいですか、契約に違反してますから本来なら始めから査問委員会のはずですが、今日は特別にお話を聞くだけにしています。正直にお話ください。」
 
 春子は見せられた写真の男は知らないし、母の土地を調べている理由はまったく心当たりはない、と言い張った。そして、
「この人に会わせてください。」
と、母の書いたメモを篠原に見せた。
「統括の西条重成ですか。今は海外に赴任してます。」
と、素っ気なかった。
 しばらくして年配の人が
「来週の水曜日、またお越しください。査問委員会です。いいですか、この事はあまり他言しない方があなたのためです。ごくろうさまでした。」
 と言いながら、査問委員会の出頭通知を手渡した。
 春子には、今日呼ばれた理由がまだ十分に理解できていなかったが、そんなことを聞ける雰囲気ではなかった。
 塩尻駅まで辰男が迎えに来ていた。辰男は今日の様子を聞いてきたが、春子は何も話したくなかった。

 査問委員会は、前回と同じ部屋で行われた。コの字に置かれた席に囲まれた長机に、春子は促されて座った。前回の人に加え、七〜八人が正面と両側に座っていた。
 母と春子の関係や近況等を一通り聞かれた後に、『なぜ他人に契約内容を話したのか』ということに、質問が集中した。家へ来た若い篠原の舌鋒は特に鋭かった。現に、役場や法務局へ第三者が調査に来たことが、決定的な事だったらしい。
 どうやら、契約の条項に、『第三者に契約内容を漏らしてはならない』という秘密保持の条項があるようだった。違反した場合の違約条項には、ペナルティーもあるらしかった。
 というのは、春子は母から、具体的な内容を一切聞いていなかったし、ましてや契約書は見ていなかった。母は『三年前、契約書も一緒に預けた』とだけ言った。
 気丈夫な母に、根掘り葉掘り詳細を聞けるような親子関係ではなかった。
 今でこそ病弱になり春子を頼るようになった母だが、春子には母の言う事は絶対だった。以前から口答えなども出来なかった。
 それでも次々に質問され答えに窮しても、母の唯一の相続人として代理出席した以上、春子は『契約内容を知らない』とは言えなかった。
 結局、母や辰男、それに岡田たち迷惑がかからないようにと思い、言われるままに調書に署名をした。
 春子が第三者にいろいろ相談した時に、不注意で内容を話してしまった、ということにしたのだった。
『もし辰男が岡田からお金を借りるために、整備局から母のところに来た書類をコピーして、それを岡田に見せたことが発覚したとしたらどうなるだろう』と考え、春子は辰男をかばったのだった。

 査問委員会は終了したが、春子にとっては今後どうなるのか、ということが心配で仕方がなかった。
『もう、西条さんをつかまえるしかない。』と、篠原を追いかけた。
「これからどうなるのですか?預けたお金はどうなっているのですか?西条さんと話をさせてください。」
矢継ぎ早に篠原に問いかけた。
 怪訝な顔をしながら篠原は、
「とりあえず今日はお帰りください。後日こちらから連絡致しますから。」
と、ドアの向こうへ行った。
春子は、何だか解らない憤りで、からだが震えた。
作品名:祖父の遺産 作家名:史郎