祖父の遺産
・・・何故もっと早く連絡をしないのか、と叱られたが、事情を伝え、森本弁護士に会ってから帰るからと言うと母は黙った。雅人と一緒にいることが、母を安心させたのだ。
岡田は
『どうなっているか、動いてみる』
と言うと道場に帰った。
雅人もしばらくして、松本へ戻った。
二人は不安を抱えたまま床に入った。
『辰男さん、どうしよう。』
『今は森本弁護士に相談する以外、手の打ちようがないな。』
春子はなかなか寝付かれなかった。思えば、天国から地獄へ落ちるとはこういう事か?とも思った。
春子は父の顔を知らない。父の実家も小さな頃母に連れられて一度だけ行ったことがあるが、夏の熱い日に縁側でスイカを食べた記憶があるだけだった。
だから父と言えば昔から、夏の照りつける日差しと、小さく切ったスイカを思い浮かべた。
父のお墓も未だない。母の実家の菩提寺にお骨を預けたままになっている。
「お父さんの供養をしてないからこんな事になったのかな?」
春子は心細かった。
四月の高原の朝はまだ寒い。
岡田の用意してくれた遅い朝食を取りながら三人は雑談をしていた。
「何がどうなっているのかもう一度話してくれるか?実はもうすぐに友人が来るんだ。彼は阿部と言ってね、帝都銀行の大口顧客だから、今回の事情がわかるかも知れないと思って昨夜連絡したんだ。週末は河口湖の別荘へ行く予定だから、こちらへ先に廻ると言ってくれてね・・・。」
春子と辰男は、少しでも早く事情を把握したくて、
「よろしく、とにかくお願いするよ。」
と、切羽詰まった返事をした。
正午頃、小太りで小柄な 阿部が息子の運転する白のベンツで道場へ着いた。
春子の第一印象はあまりよくなかったが、人の良い辰男は早くも阿部親子と談笑している。
岡田が今までの経過を説明した。
父の遺産の土地に道路が通ることとなり、買収された事。母親からの願いもあり、辰男と春子が籍を入れたこと。初年度の代金は支払われたが、自分たちの行動のために母が三年間も預けてしまったこと。期日が来たので、支払いの証書をもって帝都銀行に行ったが、何故かできなかった事。そして、岡田と辰男の関係を話したのだった。
「その証書を見せてくれませんか?ついでにこのコピーを預からせてくれますか?」
と言いながら、
「河口湖へ一緒に行きませんか?」
と二人を誘った。春子はすぐに断った。辰男もその雰囲気で遠慮した。
「とにかく、阿部さんに任せましょ!」
岡田のその言葉に促されて春子と辰男は母のいる家へ帰ることにした。
春子は気が重かった。
母と春子は、辰男と一緒になったのを機に、山梨から茅野へ越していた。
岡田の道場から家までは山の間を走って三十分足らずだった。
夕方母に報告しながら今後のことを相談した。母は
「この人に連絡を取って事情を聞きなさい。始めから担当した人だから。」
と言って春子にメモを渡した。
そこには「整備局、西条重成」と、電話番号が書かれていた。春子も二度会ったことがあった。休み明けに電話すると母に告げ、二人は部屋に入った。そして翌早朝、二人は雅人と会うために、松本へ向かった。
月曜日早朝、雅人が迎えに来た。昨日の打ち合わせで弁護士のところへ同行することとなったのだった。それに雅人の車は新車のクラウンだった。運転も雅人だ。願ってもなかった。
十時には、八重洲の駐車場へ入り、そこから歩いて15分ほどで事務所に着いた。裏通りのビルの5階にある法律事務所は共同事務所である。
森本弁護士は春子の話しを聞いた後すぐに委任状へ署名を求めた。
「本来ならお母さんの委任状が欲しいんですがね。まあ、必要になったらその時に差し替えと云う事にしましょう。」
あまりの短時間の面談に、三人は面食らった。春子はもう少しいろいろ聞きたいと思ったが、弁護士は忙しそうに立ち上がりエレベータまで送った。
「弁護士って、あんなものなの?」
エレベータのドアが閉まるや否や、春子が叫ぶように言った。辰男と雅人は、黙っていた。
銀座を後にした三人は吉祥寺の雅人の友人が所長をしている会計事務所へ立ち寄った。そこは相続関係に強く、特に資産税に関する著書は高く評価されていた。
一通りのはなしを聞いた先生もクールだった。
「その金融資産は三分の一になりますから計画的にお使いにならないとね。何もしないことが良いでしょう。今からでは相続税の評価減はありきたりの方法でしかできませんからね。
売買契約前の、お母さんの名義の時に、しかも面積が十分の一で評価がほとんどない時に贈与を済ませておけば90%以上は使えましたがね。くれぐれも何もしないことです。良いですか。一億や二億を、事業で無くすることは日常茶飯です。あっという間ですよ。」
三人は、『相続が発生した時は、よろしく』と言って事務所を後にした。
考えていなかった相続税の話を聞いた春子と辰男は、車の中でも静かだった。
茅野は冷たい雨になっていた。
春子と辰男は不安な日を過ごしていた。二人とも今は職に就いていない。だから収入が何もなかった。岡田への返済期日が明日に迫ったがもちろん返す金はない。
岡田から請求の電話がある前にと、二人は道場へ向かった。阿部のことも聞きたかった。
「今、近くに来ているんだけど、寄って良いかな?」
辰男の電話に、ちょうどいいからすぐ来るようにと岡田は答えた。
道場の広い石畳の駐車場には、見知らぬAMGのベンツが止まっていた。向かいの宿舎の部屋の窓から岡田が手招きしていた。そして部屋の中に入った二人に岡田はスーツ姿の青年を紹介した。
「阿部さんのところの若い者だ。大変なことが起きたみたいだよ。阿部親子が、警視庁に連れて行かれたそうだよ。銀行へ行った三日後だってよ。容疑は昔の恐喝未遂みたいだけれど、どうも変だ。」
青年の言うには、阿部は月曜日に銀行へ乗り込んだそうだ。しかし納得できる返事が銀行側から返ってこないで大きな声を出したという。終いには部長が出てきたけれど、押し問答で埒があかなかったそうだ。翌々日にも再度銀行へ行ったけれど、その時は始めから部長がでては来たが結局は同じ繰り返しだったと言う。
「ところがね。昨日の朝に刑事が阿部の自宅へ来て、阿部に任意同行を求めたそうだよ。容疑は半年前の恐喝未遂だというのだ。そしてそのまま帰って来ないそうだよ。逮捕されてね。これって、あんたのとこの事と関係あるんじゃないのか?」
岡田が眉をしかめながら言った。
「別件で捕まえたんじゃないのかな。そうとしか思えんよ。弁護士もおなじ見解だそうだからね。阿部は、面会に行った弁護士に、『お母さんの件は、なかったことにしてほしいと、岡田さんに伝えてくれ』と依頼したそうだ。そこでね、彼が来てくれたんだ。ところで、そちらの森本弁護士は、なにか言ってきたかな?」
「いえ、まだ何も。」
「まあ、これで他人事ではなくなったな。
ちょっと出るからゆっくりして待っていてくれ。昼までには戻るから、いつものペンションの食堂で二時に会おう。予約しておくから。」
岡田はそう言うと、若者と一緒にどこかへ出かけた。