祖父の遺産
辰男にはまだ籍が入ったままの妻がいたが、別居してから長い時間が経っていた。
もちろん別居の原因は辰男にあった。そして考えた末に、辰男は前妻と片を付けるために岡田からお金を借りたのだった。
お金の目処ができて、辰男が籍を入れることを了解したとき、ようやく母は、春子と辰男に経過を話した。
・・父が相続した山があったこと。父が亡くなった後、長兄が管理をしていたこと。国の事業でそれが買収されること。いくつもの事業にかかるので、買収は十年にわたること。総額は数十億円になること。
二人は薄々はわかっていたが、ここまではっきりと詳細を聞いたことは初めてだった。
唯一の相続人である春子に黙っていた理由を母は
「資産があることが他人にわかると、女の手には負えなくていろいろ誘惑も多くなるから。」
と説明した。気丈夫な母の言葉に春子は一言も反論できなかった。
辰男は一応岡田にお金を借りる了解をもらっていたが、母からの事情を聞き、岡田に改めて事情を話した。岡田は一も二もなく用立てた。
辰男には岡田の他に、不動産管理と投資顧問会社を経営している高橋亮二にも負債があった。大手建材メーカーの営業を担当していたとき、新しい断熱建材を開発しているという小さな会社の社長と出会い、そこにお金を貸し付けた。自分の専門分野だけに自信があったが金が続かない。そこで大学からの友人で旧知の高橋に出資を持ちかけたのだった。
証券会社に勤めた後、結婚した妻の実家の不動産を管理しながら投資顧問会社を立ち上げた高橋は、その時事業が順調で、ちょうど新たな投資先を物色していたところだった。
調査の結果、投資を了解した高橋は匿名組合を使い四千万円を出資した。
しかしその投資先は大きな隠れた債務を抱えていて、投資したお金はその返済に消え、まもなく整理に入ったのだった。全ては後の祭りだった。辰男はいつの間にか匿名組合に出資をしたメンバーに対して保証をさせられていたが、辰男はその意味がわからなかった。気がついた時には保証書が金銭消費貸借証書に替わり、いつのまにか署名をさせられていたのだった。
高橋は、「会社の役員への説明だから・・・。」と言い訳をしたが気がつくのが遅かった。
しかしそんな経緯なので高橋は辰男に対してはあまり債務の返済を迫らなかった。辰男も高橋と会ってもその話題から避けていた。
辰男が前妻と別居をしたのは生活費を入れなくなったからだった。投資がバレてしかも大きな負債を抱えたとなれば会社は見ぬふりができなくなり、辰男を解雇したしたのだ。
妻は両親を頼って子供と共に地方の食品会社に勤めた。
辰男は春子の母からの「籍を入れないか」との言葉に否を言う理由は無かったが、妻子のことが気になった。しかし金銭の目処が立ったので思い切って切り出し、後に入るであろうお金のことも匂わせて離婚届に印を押させたのだった。
四月の八ヶ岳高原はまだ寒い。炭火の囲炉裏だけでは暖がとれない。
「どうする?泊まっていってもいいんだが、ストーブを着けようか?」
と、岡田は薪ストーブに火を入れたあと、三人は近くのペンションへ食事に出かけたが、岡田は未だ事の顛末を聞こうとしないし、辰男も春子も触れなかった。
・・・・・食後のコーヒーを飲みながら、春子がつぶやいた。
「これからどうしよう?」
それでも岡田は黙っていた。辰男も何も言わなかった。
春子の携帯が鳴った。
「雅人さんだ。」
雅人は、母の姉の息子で、春子にとってはただひとり気の許せる相談相手だった。
辰男との結婚のことも父の遺産のことも相談していた。辰男のことも岡田のことももちろん知っているし、面識もあった。
「もしもし、あのね、何が何だか解らないの。今八ヶ岳の岡田さんの道場にいるんだけど・・・。」
春子は、道場に泊まることを告げると、雅人も来ると言う。
岡田に了解を求めた春子は、
「すぐに来て。」
と、電話を切った。
春子は久しぶりに湯に入りさっぱりしていたが、未だ母には何も連絡をしていなかった。何がどうなっているのか、状況が掴めていなかったからだ。
電話の後すぐに松本を出て駆けつけた雅人が到着したのは、もう八時を過ぎていた。岡田は返済日に未だ期日があるためか、話を急がなかったので、三人がいる部屋に雅人が加わりようやく本題に入った。
「結局どうだったの?」
雅人が切り出した。
「帝都銀行の本店へ行ってあの書類を窓口へ出したのね。それから30分も待たされたの。そしたら今村という課長が出てきてね、何を言うかと思ったら、『私共ではこの業務は現在扱っておりませんのでお確かめください。』って言うじゃない。どういう事?って聞いたんだけど、『私共では、・・・・。』って繰り返すばかりで、埒があかないの。」
春子は狐につままれたような顔をしながら、不安げに話し出した。
「ああいうのを慇懃無礼って言うんじゃない?失礼しちゃう。」
「それで何も解らずに出てきたの?」
岡田が口を挟んだ。
「もう何を言っても返事は同じで、ダメだと思ったから出てきたの。そしてね、弁護士の森本先生のところへすぐ行ったけど居なかったのよ。結局来週まで会えないの。」
森本弁護士は国と母との売買契約の後、土地にあった賃借権抹消の後始末のために依頼した弁護士で、春子は二回だけ会ったことがあった。しかし契約には関わっていなかった。
土地の売買契約には、代理人を認めなかったから全て母が対応した。
春子は、契約内容を知るよしもなく、契約書も手元にはなかった。ただあるのは支払いにかかる証書で、帝都銀行管理のUC証書ナンバーが書かれ、県と整備局と財務局の名が書いてある一枚のもので、金、壱拾弐億四拾参萬五百円也と書いてある。
「どうしてこんな面倒なことになっているんだ?」
岡田は、多少知識があったから、不思議そうに聞いた。
「私たちが結婚したばかりの時にいい気になって少し無茶をしたのよ。気が大きくなって働かなかったの。そして手付けの三千万円をすぐに使ってしまったから母が怒ってね、あとの土地代金を三年預かってくれって整備局の人にお願いしたの。だからじっと待ったのよ。ねえ辰男さん」
春子は辰男に同意を求めた。
「俺のせいか?」
と、辰男はふてくされたがその通りだった。
春子の母は気丈夫で、春子には一切相談しなかった。全て独りで仕切った。だから春子は契約書を見たことはない。細かなことは一切知らされなかった。
しかし、ここにきて急に持病の腎臓の具合が悪くなり辰男と春子に任せるようになったのだ。それでも、第一回の支払いの証書を二人に託して銀行へ行くように言っただけだった。
「銀行に強い男が居るから相談してみよう。いいだろう?ところであの金額はどういうものなの?」
岡田は単刀直入に聞いてきた。
「あれはね、初年度分なのよ。だからあの外に後九年分あるのよ。」
「ええっ?」
岡田はもうそれ以上、何も言わなかった。そして酒の用意を始めた。
『お母さんに連絡した方がいいよ。』
雅人は身内だけに春子と母のことを気遣った。そして雅人の携帯から母に連絡した。