榊原屋敷の怪
ワン。
その時どこかで犬の吠え声が聞こえた。
吠え声が徐々にこちらに近づいてくる。
それと同時に私の首を絞める女の手の感覚がなくなった。
それと同時にぼやけていた視界が元通りになり、私はゲホゲホと咳き込んだ。
気が付くと私の布団の横に真っ白なワンちゃんが座っていて心配そうに私を見つめていた。
「あなたが助けてくれたの……?」
そんな私の問いに応えるかのようにワンちゃんはペロリと私の顔を優しく舐めてくれた。
*
榊原紀江は懐中電灯を手に廊下に歩み出た。
もう片方の手には榊原家に代々伝わる日本刀が握られている。
彼女は夜中に屋敷内を歩く何者かの足音を聞き、その正体を確かめるために部屋を出たのだった。
「さて……こんな時間に誰かしらねぇ」
そう呟いてから紀江は刀をしっかりと握りしめた。
足音の正体が誰であれ油断は禁物だ。
足音の正体が百合か真理だったなら「おやすみ」と言って寝室に戻ればいいし、もし違う誰かだったなら刀を突き付けて警察に通報すれば良い。
そう、簡単なことだ。
紀江は自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。
深く息を吸い込んでから彼女は歩き出す。
一歩進むたびにギシギシと床が鳴り、その音が屋敷中に響いた。
夜中に突然彼女の足音を聞いた者はきっと幽霊や妖怪の足音だと思うだろう。
それだけこの夜の屋敷に誰かの足音が響くのは不気味だった。
懐中電灯で周囲を照らしながら廊下を歩いているとギシギシと床を踏み鳴らす音が聞こえて来た。
足音の主は二階を歩いている様で足音はそのまま紀江の真上を通過して行く。
「二階にいるのか……」
天井を見上げながら紀江は呟いた。
二階には真理の部屋がある。
果たしてあの子は大丈夫だろうか。
紀江の視線はそのまま天井から下がり廊下の奥にある階段に向けられた。
足音の主はおそらくこのまま廊下をまっすぐ進んで階段に到達し、一階に降りてくるだろう。
足音の主が階段を下りてくる前に階段の後ろのスペースに隠れ、降りてきたところを背後から捕える―。
これが紀江の作戦だった。
確かに、今の状況は二階にいる真理が危険かもしれない。
しかし刀を持っているからと言って高齢の彼女が侵入者に正面から挑んで勝てる可能性は低い。
だからリスクを犯しながらも確実に相手を捕えられる方法の方が良い。
それに今まで真理の悲鳴や叫び声が聞こえてきていないのは侵入者に気付かず眠っているためだろう。
侵入者だって気付かれてもいないのに家の住人に危害を加えるというリスクは犯したくないはずだ。
紀江はそっと音を立てない様に階段の後ろのスペースに隠れた。
身をかがめて懐中電灯の光を消す。
しばらく待っていると足音の主がギシギシと音を立てて階段を下りてきた。
それと同時に周囲を言いようのない冷気が包み込む。
紀江はゴクリと唾を飲み込んだ。
足音の主が階段を下り切って廊下を歩きはじめる。
紀江は覚悟を決めてから立ちあがった。
刀を握り締め、あの足音の跡を覆うと耳を澄ますが、なぜか足音が消えている。
「どういうこと……」
首を傾げながらも紀江は足音の正体を探るために歩き出した。
極力音を立てないよう猫の様に歩く。
懐中電灯も相手に気付かれないために点けていない。
いったいどこに行ったのよ……。
そんなことを心の中で呟きながら紀江は左に道が折れている部分に到達した。
それと同時に曲がり道から着物姿の女が姿を現す。
紀江は「ハッ」と息を呑んだ。
その女から発せられる凄まじく禍々しい恨みの念。
紀江には一人思い当たる人物がいた。
それは裏庭の蔵の中に封印されている怨霊・雨刈鐔鬼(うげ つばき)。
江戸時代に当時の榊原家当主だった佐久朗が襲われ、陰陽師に封印させた強力な怨霊……。
紀江は実際に蔵の中に入ったことはないが、残された書物や両親から聞いた話で大体蔵のことは分かっていた。
絶対に扉を開けてはいけないと言われている蔵。
その中にあるのは佐久朗に殺された鐔鬼という女性の怨霊が封印された人形とそれを真似る様にしてたくさんの人の恨みや哀しみを吸収させられた大量の人形達。
過去に読んだ『榊原屋敷の怪』という書物によると鐔鬼は『渦鎮(うずしずめ)』と呼ばれる儀式の生贄として無理矢理榊原の屋敷に連れて来られたという。
そして鐔鬼の叫びも虚しく、結局彼女は儀式の生贄として佐久朗に殺されてしまった……。
しかし無理矢理命を奪われたという強い怒りの念から彼女は怨霊化、佐久朗を殺すためにその日の夜彼の屋敷に現れるが翌日佐久朗の呼んだ陰陽師によって人形に封印される……。
渦鎮と呼ばれる儀式は鐔鬼が殺されるよりも前から存在していたという。
書物に書かれた儀式の内容はこうだ。
『選ばれし巫女は 奉げの場にて首を斬られる』
何でも奉げの場と呼ばれる場所に巫女の血を流し、その血によって村に渦巻く怨霊や生霊を沈めるのが目的だという。
この儀式は巫女が現れた時に不定期的に行われており、その間の期間はおよそ30年から50年らしい。
ちなみに巫女に選ばれる具体的な定義については不明である。
鐔鬼が怨霊化するという事件の後は生贄の変わりに人形を使う様になり、この『人形封じ』と呼ばれる儀式は村の人々の怒りや悲しみが生霊となるまえに人形に封じるという物でありこの儀式は近代まで続いていたという。
蔵のなかにあると言われる大量の人形はこの儀式に使われた物だ。
「……」
紀江はホッと胸を撫でおろした。
鐔鬼の霊は自分の方を振り返ることなく反対側の廊下に進んで行ったからだ。
しかし鐔鬼はあの蔵の中に封印されていたはずだったのになぜ……?これまで封印が破られたことはなかったのになぜだ……?
鐔鬼が封印されてから何十年も経っているため封印が脆くなっていたのだろうか?
どんなに推測を並べてもキリがない、とにかく蔵に行ってみよう。
あそこに行けばなぜ鐔鬼の封印が解けたのか分かるかもしれない。
紀江は蔵に向かうために方向転換をしようとした。
しかしこれが間違いだった―。
紀江は体の向きを変えるさいに落ちている鈴に触れてしまったのだ―。
チリンという音が廊下に響く。
前方の廊下を歩く鐔鬼がゆっくりと振り返える。
紀江はあわてて近くの和室に隠れたが彼女がその部屋に入るのを鐔鬼はハッキリと目撃していた。
部屋に入った紀江は懐中電灯を灯しどこか隠れられる場所がないか部屋中を照らした。
懐中電灯の明かりが押し入れを照らし出す。
ギシギシと足音がゆっくりとこちらに近づいて来た。
一歩一歩、着実に魔の手は忍び寄ってくる―。
紀江は急いで押し入れの中に身を隠した。
音でバレない様にそっと押し入れを閉める。
「……」
紀江は口に手を当てて息を殺し、自分の気配を消すことに専念した。
彼女は刀を持っているが、刀一本で到底太刀打ち出来る相手じゃない。
足音がこの和室の前で止まりゆっくりと襖が開く音が聞こえた。
それと同時に不気味な呟き声。
「分かっている……この部屋にいるのだろう……逃がさんぞ榊原……」
部屋に入り、鐔鬼は部屋中を見回した。
そんな彼女の視線が押し入れで止まる。
そして鐔鬼は不気味に口を歪めてニヤァっと笑った。
「見つけた……そこだな……」
鐔鬼がゆっくりと押し入れに迫る。