献帝
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董卓のように倨傲でもなく、呂布のように暴虐でもない、あの曹操と云う人物は、考えようによってはこの二人よりもさらに朕を苦しめる人物であったのかもしれない。
朕は皇帝でありながら、政治にまったく関与することなく、ただひたすら、鄴に拵えられた仮の宮殿のなかで、まるで籠の中の鳥のように囚われていたのである。この窮境をいかにして脱せばいいのか、それがわからなかった。そこで曹操の眼を盗んで、勅を出すことに決めた。
勅を与える相手は、あの勇猛な戦士を連れている劉備に決めた。
劉備に左将軍の位を与えるという名目で、下賜させる物品のなかに勅を忍ばせた。幸い、曹操にはその勅を見破られることもなく、うまくことは運んだのであったが、とうの本人である劉備は、まったく動かない。
勅に気づいていないのかと思い、使者を派遣したものの、その使者にも横柄な態度をとって、土いじりにかまけていたという。しかし、無視しているのではなく、機会を窺っていたのであろう。あるとき、曹操の前で劉備は演舞を行うことになったのだが、そのときも、劉備は動かなかった。
そしてそのまま鄴から離れて、以降は、諸所を転々とする生活になったのである。
その頃には曹操は、朕が劉備に下した勅の存在を噂で知っていたようである。劉備が勅を持っているという噂は諸将たちの耳にはいり、しきりに囁かれていたようだ。
が、その勅はやがてうやむやになって効力を失ったのである。
曹操はそれからも、夏侯惇や曹仁といった武将とともに覇権をかけて連戦した。戦にはほとんど勝ち、下邳において、呂布も破ったのである。
もはや中原に曹操を牽制する勢力は袁紹のみとなった。
その呂布との戦いにおいて、張遼という武将を手に入れた曹操は、それに力を得て、袁紹との戦いに駒を進めた。
朕はあとからその話を聞いたのみであって、そこは市井の民草とまったく変わらぬ知識しか持ち合わせていないのであるが、官渡の戦いはそれは熾烈であったということである。曹操率いる青州黄巾軍が旺盛な殺戮欲――兇猛な殺戮に向ける情念をそう呼んで差し支えないなら――が全軍を牽引し、寡によって衆を討つということを実現したのであった。
その戦によって、来たるべき世が、曹家のものになることが確定した。
もちろん、江南には孫策が居たし、劉表や、馬超といった勢力もあったが、そこまで強力になった曹操の軍にまともに戦える勢力はもうないに等しかった。
と、そこまで云ってしまえば、曹操の天下は確実であったろうが、しかし、それからしばらくして、中華の大勢が変わってきた。
劉備はそのとき劉表のもとに身を寄せていた。
曹操は人材を多く獲得しようと、能力のある人間ならば、誰でも登用すると決めたのである。
そんな曹操に呼応するかのように、劉備もまた、荊州の地において、後の世のかなめになる人材を獲得したのだ。
諸葛亮である。
諸葛亮と云うと、臥龍という名で知られている人物で、鳳雛とともに、どちらかひとりでも味方にすれば、天下を取ることもたやすいとされた人物であった。
劉備はそのどちらをも手に入れたのである。
天下が動乱する前触れであったのかもしれない。
しかし曹操はそんなことなどまったく意に介さぬほど、いまはもう、破竹の勢いを得ていたのである。