献帝
6
時は過ぎ、劉備は蜀の地を得て、孫策の弟孫権は呉を樹てた。
曹操は呉と蜀と討つために、あの会猟せんという文章を敵方に送り、長江を船で下って行った。それはかなりの規模の水軍であった。が、曹操はその戦に大敗したのである。大敗の原因は連環の計にあったとされるが、それを実現させたのは、あの諸葛亮であるという噂であった。
曹操はそのとき、諸葛亮の天下三分の計の考えを耳にしたそうである。
この中華を平かにしてひとつの国にすることの困難を考えさせられる思想であった。天下を三つに分ける。つまり、魏、呉、蜀の三国である。
袁紹を破って力を得た曹操にはもはや敵はいないと思われていたのに、呉も蜀も攻略しがたしという思いを抱くに至ったのである。
あのころの曹操は苦しんでいたのだと思う。
頭痛も持つようになっていて、神医と云われた華陀という医師を身内においたこともその苦しみを物語っているようである。
曹操はそのころ銅雀台を作った。二喬をそこに侍らして快楽を求めることを希望してつくったものであり、それは確かに実現した。が、それに対する気兼ねが小喬にはあったようで、姉ともども早世してしまったのであった。
それからは小競り合いはあったものの、それほど大きな戦はなかった。
曹操は政治に重きを置くようになり、またその活動の中で、朕を振り返ることが少なくなっていった。朕に対してどういう意識を持っているものであるのかわからぬと云うのは不安で、とても心細いものであった。
曹操はやがて亡くなった。
曹操亡き後のことは考えたくなかった。
そのあとを継いだ曹丕は冷血なところがあり、朕を冷遇するようになっていった。しかし、それは生まれたときから後継ぎとして増上慢を示していた印であったのだろうけれど、朕を皇帝として崇めるよりも、もう風前のともしびである漢王室の生き残りと云う憐みの眼で視ていたような気がするのである。
そして、曹操が亡くなった後、曹丕は朕に禅譲を迫ってきた。
魏の国に朕の味方は少なかった。
朕は折れ、曹丕に位を譲ることに決めた。
はかない人生であったと思ったが、新国である魏で山陽公に封じられることになった。朕の妻の曹節はその決定にずっと首を振らなかったが、しぶしぶ玉璽を差出し、それからは火の消えたような雰囲気を醸すようになった。
「兄上がこのような仕打ちをしようとは思いもしませんでした」
妻は云った。それは苦しげな表情で、見るからにその決定を受け入れることに難儀している様子であった。
朕は――皇帝の位を譲ってからも、曹丕は朕に「朕」の称を使うことを許してくれていた――それもまたよかったのではないかと思っている。
が、それにしても、朕ほど、波乱万丈の人生を送ってきた皇帝もあるまい、とそう思う。
苛烈な存在がつねに身の回りにあった。
であるからこそ、いまのこの山陽公に封じられてからの落ち着いた人生は貴重なものであるな、と思える。
民草はそういう幸せを心に抱いて、これまで生活してきたのだなとそんなことを思いつつ、今日もまた物思いに耽るのである。
【献帝 : 了】