献帝
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曹操は董卓や呂布とちがい、洗練された美を身裡に抱いているような男であった。華美を好む卑しさもなければ、享楽にうち興じるような堕落的精神も持ち合わせていない。欠点をあげるとすれば、色を好むという点において、他の英雄と変わらぬどころか、それ以上に旺盛な興味を持っていたことくらいである。しかし、それによって内政がおろそかにされることはなかった。
朕は許昌に来て、あることに驚かされた。
この漢の国を騒がせた大事件のひとつ、張角率いる黄巾党の残党である青州の部隊をまるまる吸収し、自分の軍隊として使役していたのである。正確な数はわからぬが、一説には三十万とも云われていた。当時、それだけの軍兵を持っている勢力は四海の内にはなかった。これは誇張ではない。朕もはじめは、まさかという気持ちでその噂を聴いていたのであるが、訓練風景を見るにつけ、また、黄巾党の家族がこの都市の一隅に住まわっていることを思うと、それが本当であるのだという事実がよりはっきりと浮かび上がって来たのである。
曹操はその軍隊を手にしてすぐに、父である曹嵩を殺されるきっかけになった陶謙を討つためにその軍を動かした。父の敵として討ちにいったという名目ではあったが、朕はそうではないだろうという思いを強く持っている。あの鬼のように冷たい曹操が、身内を討たれた恨みだけで揚州を血祭りにしようとしたとは思えないのである。そこには曹操なりの権謀術――曹操なりの戦の狙いが存在していたのではないかと思うのである。
結局、曹操が揚州に攻め入ったとき、背後から呂布の軍団が予州に攻め入った故に、曹操は退却せざるを得なくなり、またそれによって何の運命か、病没した陶謙に代わって、客将の身分であった劉備と云う男の元に揚州が転がり込んだのである。
朕はそれまで劉備と云う男を見たことがなかった。
噂では中山靖王劉勝の子孫であるとのことだが、それは本当であるのかどうかは知らなかった。劉姓は世間にごまんとあるし、亜流傍流も存在している。あの董卓などの意見では、あんなものはまやかしでしかないと決めつけてもいた。しかし、そういう少しでも朕の血筋と関係のあるものが、天下で軍勢を率いて戦っているのだと思うと、それもまた嬉しいことである。
劉姓というと、他に劉表や劉焉という存在もある。
そのすべてが朕に関係ある劉姓であるかどうかはわからぬ。
が、あの時代、関係を深めるに、血縁と云うものが大きな要素として影響してくることを思うと、これは捨て置けぬものであることが意識される。
その劉備の脇には、関羽、張飛という武将があるという。
いずれ劣らぬ武の戦士であるときく。
かつての戦、虎牢関つまり汜水関の戦いでは呂布と関羽が戦ったという。
関羽は呂布といい勝負を繰り広げたらしい。
その戦には曹操も参陣していて、近くで見たと云っていた。
一将と一将の戦いはもはや何の意味もないというのが曹操の意見であった。一人の働きで、戦の大勢が決まるなどと云うのは、結局、気分で戦をしているだけのことであり、そんなことでは万の兵士を自在に動かすことは出来ぬと云うのが曹操の主張であった。あの見るからに恐ろしい青州黄巾党を率いる人物らしい意見であると朕は思ったものである。