献帝
3
それは朕が洛陽に着くよりも少し前のこと。
朕はともに道を歩いてきた侍官にこのようなことを問われた。
「洛陽の都にはかつてのような栄華はなく荒廃していると聞き及んでおります。そのうえで天子様はなぜに、あそこへ戻ろうとされるのですか?」
その疑問は尤もであった。
朕はそれに答えた。
「天とともにあると思える場所は、朕にとっては洛陽しかないのだ。それ以外の場所では、朕は、羽衣を隠された天女のようなものだということを強く感じている」
侍官はそのまま押し黙った。沈黙が同意の役目を果たしたのである。
朕は臣下を説得し、旅を続けた。
一ヶ月以上掛かる長旅であった。
長安から洛陽と云うと相当な距離がある。
そして洛陽に着いたとき、朕の希望は、絶望に変わった。あの煌びやかで荘厳だった建物は完全に焼き尽くされ、かつて宮廷のあった場所は、もはやぼろぼろになっている。宝物は盗まれ、建物は壊され、荒れるにまかされている。朕は死を思った。もはやこの地と同じく死するしか手段は残されていないのではないかと絶望を深く思った。
しかし朕の思いの中に、ひとつの希望が生じた。
誰か信頼のおける者を脇に置いて、また一から国政を始めていけばいいではないか。
そんな希望が胸に萌す。
――しかし誰にその大役を任せればよいのか?
袁紹か――袁術か――劉表か――?
しかし、いい名が浮かんでこない。といって、今更呂布に頼るわけにもいくまい。ならば、一体誰を――。
そのとき一人の男の名が心に浮かんだ。
曹操。そうだ、曹操だ。
あの男なら、もしかすると、うまくやるかもしれない。
朕はそう思い定めて、曹操を呼び寄せることに決めた。
曹操はほどなくしてやってきた。荒れ果てた洛陽の都を脇目に見つつ、朕の待っている宮殿へとやってきた。
曹操は初めて見たわけではないが、その姿はなかなかの美男子である。
小柄ではあるが、程よい筋肉を持ち、武術の腕も相当なものがあるとのことである。
「朕とともに国政を司ってくれぬか?」と曹操に告げると、彼は答えて云う。
「私はまつりごとは行ってもかまいませぬが、この地では遠慮させていただきたい。つきましては帝にはわが城、許昌に移っていただき、そこで国政を執っていただきたい」
「なに? 許昌だと?」朕は訊ねた。
しかし問い直しても答えは変わらなかった。
朕はなんと弱い皇帝であるのか。その曹操の押しに敗れて、許昌に移ることにしたのだったが、そのときは何が何かわからなかった。そのわからなさ、えたいのしれなさが曹操という男の正体であったのかもしれない。いまこの曹操亡き後の魏の国に居ても、曹操の正体は完全にはわからなかったという負い目がある。曹操は永遠の謎であった。