献帝
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あの董卓に睨まれながら、朕は成長した。
華美な衣装に身を包んだ楽団の出し物を見ながら、心は常に心底解放されることなく、ひたすら董卓の顔色を窺わなくてはならぬ日々であった。しかし不思議なことに董卓の方から朕に要求をしてくることはなかった。あれをしろ、これをしろ、あの者を篤く遇せよ、かの者を罰せ。そういう要求をしてくるものは董卓以外にもあった。家臣と云えるたくさんの諸侯らが、そういう要求はすすんでしていたのであったが、ひとり董卓のみは朕の威光を利用しようという腹積もりもなく、ただ朕を皇帝と云う駒として眺めるだけに留まっていたのである。利用しなかったのは他者に依存しなくとも、自分の力のみで物事を推し進められる自信を持っていたからではないか。いま思うと、そうであったと見られるのである。
また、董卓は荒淫を楽しんだ。宮中にいる女官たちにも容赦なく手を出した。しかし好きなのは乙に澄ました女官ではなく、過度に淫靡な芸妓たちであった。そんななか、董卓の侍女として彼の夜の相手もしていた女を、もともと丁原の部下であった呂布が見染めて、それによって彼に彼女を与えると云うことがあった。その女の名すら、朕は知らない。しかし、呂布という男を初めて見たときは、こんな粗暴な人間が自分と同じ大地に存在しているのかと思えるほど、きわまった特性を持った人物はある種の畸形であると強く思ったことを昨日のように覚えている。
爾後、董卓と呂布は親子の契りを交わしたということである。
董卓の暴虐と呂布の横暴はうまく協調しあった。それによって、他の部下は生きた心地がしなかったというのが正直なところであったろう。斯く云う朕もそのなかの一人であったことを隠さずに宣言しておこう。
初平三年四月、ここで董卓にとって大変な事件が起こる。
暗殺である。
呂布の反乱であった。
呂布は参内しようとする董卓を捕まえて、斬りかかったと云う事であった。それは元司徒の王允と結んでのことであった。一説には、呂布に払い下げられた元董卓付きの侍女というのは、この王允の娘であるという説があって、亡くなってしまったいまの状況ではそれを確かめることはできないものの、なにかそこに含みがあったのではないかという気持ちはおろそかにすることができないものである。
呂布は常識の通用しない相手であった。
董卓が命を落とし、それによって新たな時代が来たかと云えば、それもまた異なっている。董卓亡き後の世は、また別の地獄が現出するだけのことであった。そして、朕はそこで詔勅を出すということもできず、皇帝らしい威光を示すこともなく、呂布政権の不備をただじっと眺めることだけしかできないのであった。
朕は長安を抜け出し、洛陽へ戻りたいと強く念じていた。
そしてその気持ちが嵩じ、本当に長安の都を抜け出して洛陽への道を急ぐことにした。
洛陽は遠い。
それを実感したのは、実際にその距離を、籠などを使わず自分の足で歩いたからである。
それは受難の旅の幕開けといっても良いかもしれなかった。