「不思議な夏」 第十三章~第十五章
志野は長い電話をかけていた。小百合と話しているのだ。式が終わって、新婚旅行の帰りに立ち寄って、自分はそのまま残るということ、そして貴雄が引越ししてくる準備をするということ、それらの打ち合わせのために来月行くということ、など話は尽きなかった。小百合は志野と一緒にこんなに早く住める事が夢のようだった。もう一人じゃない、これからは二人で、いや本当に母親のようにして志野と貴雄とやがて生まれる孫と暮らせる。そんな希望に胸躍らせていた。旅館も自分の代で潰さずに済むことも出来る。やっと訪れようとしている本当の幸せだったが、この時すでに小さな病魔が小百合の体を蝕み始めていた。
寒さも緩み始めた三月の初めに、志野は一人で佐久間家にやってきた。貴雄が手配してくれた切符を持って覚えていたとおりに上田駅まで来て、迎えに来てもらった小百合の車で宿に向かっていた。
「一人で来れたのね、大丈夫だった?」
「はい、ほら、貴雄さんに書いていただいた乗り換えの時間表。これなら間違えませんわ」
「ほんとね、親切な人・・・幸せそうね、良かった」
「ええ、母様・・・ご安心なさって。本当に志野は幸せですから」
車は所々雪が残る山陰をすり抜けながら宿へついた。温泉の匂いが鼻を突く懐かしい故郷の佐久間屋であった。
「疲れたでしょ、まずは温泉に浸かって身体を休めて頂戴。私も一緒に入るから」
「はい、そうさせて頂きます」夕飯までの一時、身体を休める時間が出来る。今日は泊り客も少ないから小百合は広間を従業員の一人に任せて、志野と一緒に浴室に向かった。
「いい気持ちですわ・・・ここの温泉が一番身体にしっくりとなじむようで、大好きです」
「志野・・・あなたがここの出身だからよ。子供のときの感覚を覚えているのよ。違う?」
「はい、そうでしょうね。小さい頃真田水で沸かした風呂に入っていましたから・・・変わらないのですね、500年近くの時を経ても。私には本当に馴染めることが多い気がしています」
「よく決心してくれたわ・・・ここへ来ること。貴夫さんに本当に感謝しないといけないわね」
「ええ、本当にそうですね。あの方はどうしてそこまで私のことを考えて頂けるのでしょうか?」
「志野・・・そんなふうに考えているの?」
「疑問に思っているのではありません。降って涌いたような私にそこまで世話をして頂けることが、何故って思えるときがあるのです」
「そうでしょうね・・・私にもそれは解らないわ。きっと過去からの運命的な何かが貴雄さんを突き動かしているのよね・・・あなたのことが彼の理想なんでしょう。初めて出逢った時から、彼の心の中にそう感じられるものがあったのでしょう。でなきゃ、初めから親切になんかしないと思うわ。大変なことなのよ、一人の人間を支えるって言うことは・・・」
「はい、母様のおっしゃるとおりです。私のような女を大切に思っていただけることが信じられません。貴雄さんには宮前先生が相応しいかと、お会いしてそう感じました。美しいし、頭も良いし、医師をされているし」
「えっ?そんな事思ったことがあったの?」
「ええ、3人でお会いしたときに、宮前先生にそういいました」
「なんて言われたの?」
志野は、名古屋でのあの夜のことを思い出していた。
「先生は、貴雄さんが好きなのは私だけで他の女性を抱くといったようなことはしない人だ、とそう言われました」
「そう・・・先生は振られたのね」
「いいえ、初めから貴雄さんはそんなことを思ってはいなかったようです。先生がひょっとしたら・・・好きに感じられていたのかも知れませんが」
「そうね、あの人の優しさに触れたら、たいていの女性は好きになっちゃうのかも知れないね。あなたも心配ね?」
「いいえ、私は束縛を好みません。貴雄さんが私の夫でいてくださるのなら、家族を大切に思って頂けるのでしたら、ご自分の責任で遊ばれても構わないと思います」
「志野、本心じゃないよね?それは貴雄さんにたいする、せめてもの気遣いなの?」
「違うんです。男の方が遊ぶのは仕方の無いことなんです。父もそうでしたし、知っているほとんどの殿方は妻以外に妾を持っておられましたから・・・特に幸村さまは、お忙しい方でした」
「今は時代が違うのよ。そんな気持ちでいちゃダメ。愛する人は一人だけ、そして愛される人も一人だけ。二人でずっと仲良くやって行くのよ。どんなことがあっても浮気は許しちゃいけませんよ、志野」
「母様・・・解りました。やっぱり本心で言うと、悲しいですから、私も・・・」
「そうよ、それでいいの。あなたはもう今の時代の女性なんだから。私は娘が悲しむようなことは絶対に許さないから・・・」
「嬉しく思います。本当のお母様のような気持ちになってまいりました。お母様・・・」
志野は身を寄せた。細いからだの小百合は、まだ若い筋肉質の志野の身体を強く抱き締めた。折れるのは自分のほうだと感じたが、母親としての強さを志野の身体に残すようにずっと力を入れていた。
-----第十五章 命と旅立ち-----
志野は、小百合と翌日長野市まで出かけて、必要な買い物をした。こんな日が来ることがあろうかと残して置いた母からのお金を志野との暮らしのために使った。貴雄から必要なものは自分が買うから、と手渡されていたクレジットカードを小百合に差し出したが、「お世話をするのは私と生きていたらあなたの祖母になる母の願いだから」と突っぱねられた。
「お母様、私が貴雄さんに叱られます。全部とは申しませんが、お支払いをさせてください」
「何を言ってるの!気を遣わなくていいから。まだ16でしょ、大人に任せておきなさいって・・・そりゃ流行っていない旅館だけど、母が残してくれたお金は結構あるのよ。あなたのためにって、今は思えるの。墓場に持ってゆけないし、いいのよ。貴雄さんには、私から言っておきますから」
頭を下げて志野は小百合のいう事に従った。二人の生活のために、電化製品や家具が新しくなる。細かなものは追々買い揃えるとして、旅館で共有出来る以外の生活用品を買い物した。
夕方までかかって戻ってきた二人はちょっと疲れていた。良く歩いたし、動き回って色々と気遣いもしたからであった。
小百合がいつもと違う表情を見せた。ちょっと苦しむような様子だったのだ。
「お母様!いかがなされました?お顔の色がよろしくないようですが・・・」
「志野、心配しないで。疲れただけだから・・・最近歳ね、こんな事が良くあるのよ」
「それならよろしいのですが・・・休んでください。今夜は私が宿と食事のお世話を致しますので」
「ありがとう・・・じゃあ、そうさせていただこうかしら」
小百合は奥に入って、身体を横にした。志野は聞こえない場所に移って、宮前医師に電話をかけた。
「ご無沙汰をしております。木下志野です」
「あら、志野ちゃん、どうしたの?」
「ちょっとご相談がありまして・・・」
志野は、結婚の話と同時に小百合の様子を話し、どうすればいいのか訪ねた。
「そう・・・ちょっと心配ね。お幾つになられたの?」
「確か50歳だと思いますが・・・」
「独身でらっしゃるのね?」
作品名:「不思議な夏」 第十三章~第十五章 作家名:てっしゅう