「不思議な夏」 第十三章~第十五章
「それはそうですが、妻として充実した日々を過ごしたいと思う反面、小百合さんの傍に居たいとの思いも強いんです。わがままかも知れませんが、子供が授かったらここに来たいと思います。許して頂けませんか?」
「僕から離れて暮らすって言うことになるよ?」
「それは・・・」
その先は言えなかった。愛する人と別れるなんて出来ないことに決まっている。自分がここにいる事は貴雄のおかげだから尚更だ。しかし、小百合と離れることも同じぐらい出来ないことに思えるのだ。
沈黙が続いた。すすり泣く志野の悲しみだけが静まり返った角間温泉の夜に響いていた。
-----第十四章 決断-----
角間温泉の正月は終わった。二日の夜になって自宅へ戻ってきた。貴雄は数少ない年賀状を見ながらやっと自分の正月を感じ始めていた。伯父の泰治に電話をして、明日挨拶に行きたいと聞いた。志野と二人で朝出かけて、帰りに佐伯の部屋を訪ねようと思っていた。
3日の朝、伯父は二人に年頭の挨拶を交わした後、こう言った。
「今年はお前達二人にとって記念すべき年になるな。志野さんの誕生日を待って入籍するんだろう?」
貴雄は志野と顔を見合わせて頷きながら、
「はい、そのつもりです。伯父さんには志野の義父としてお世話になりますが、宜しいでしょうか?」
「そのつもりだよ。式場はもう予約してあるのか?」
「いいえ、まだです。志野が勤めている伊藤さんのところでお願いしようかと、これから伝えるつもりでした」
「それがいいな。私からも頼んでおくよ。身内が少ないからできるだけ友人を呼んで人数を集めないといけないね」
「そうなんですよね・・・志野の友人として一人お誘いしたい人がいるのですが宜しいでしょうか?」
「誰だね?」
「真田村の佐久間さんという女性なんです」
志野は驚いたように貴雄の顔を見た。
「志野が実母のように慕っている方なんです。とても素敵な方で、今旅館の女将をされています」
「そうか・・・真田村の方か、訳がありそうだなあ。構わんよ」
「ありがとうございます。それから・・・これはボクからのわがままなんですが・・・」
「なんだい?言いたい事があるならはっきりと言えばいいよ」
貴雄は志野の将来について話した。
「伯父さん、志野はやはりこの都会での暮らしにうまく馴染めないようなんです。去年夏に行った角間温泉の女将さんとの出会いで、志野は真田村の、いや角間温泉の生活が気に入ったようです。子供が出来た後の子育てや、出産の事も考えて生まれる前にそこへ住まわせようかと考えているんです」
志野は自分が言った事を貴雄が真剣に考えていてくれた事が嬉しかった。零れ落ちる涙を堪えながら、うつむいて聞いていた。
「なるほどなあ・・・真田村か。生まれ育ったところだから空気が合うのだろう。それはいい事かも知れんが、貴雄はどうするんだ?」
「ええ、まだ具体的には考えていませんが、通える範囲で何か商売でも始めようかと・・・上田市なら車で直ぐなので」
「ほう、それはまた思い切ったことだな・・・今のアパートの家賃は月々の暮らしには事欠かない位あるのだろう?それだけではダメなのかい?」
「伯父さん・・・身体動かさないと鈍っちゃいますよ。それにゆくゆく志野が佐久間屋の女将になったとして、ボクはボクで生きがいも見つけないといけませんし」
「生きがいか・・・子供や孫だけでは叶わぬからなあ。男はやはり仕事で見つけないとダメかも知れんな」
「はい、そう思います。志野は佐久間さんに任せていれば安心ですし、子供もきっと健やかに育つ環境だと思っています。伯父さんたちとは離れてしまいますが許して下さい」
「貴雄、それは構わないんだよ。お前が自分の人生を見つけたのなら応援するだけだよ。新次郎の墓前に早速報告しよう。今から行こうか?」
「はい、そうします。ありがとう、伯父さん・・・」
志野は貴雄の気持が本当に嬉しかった。この人はわたしの事を一番に考えていてくれる人だと改めて思った。どんな事をしても尽くさないと許されない、と自分に言い聞かせた。
貴雄は志野と出逢った時からこうなる運命を抱えていたのかも知れない。自分の運命を左右させるほど志野には魅力があった。外観だけではない。考え方も、信念も、そしてなにより貴雄を愛する心が伝わってくるのだ。男として一人の彷徨える女性を幸せに導く事が出来たら、それは大きな自信と勇気に変わる。自分の中にある小さなこだわりを捨てて、二人の未来を作ってゆく事こそが自分の仕事だと思えるようになっていた。
幸い事故でなくなった両親が残してくれた財産で12棟あるアパートを保有している。管理は伯父に任せてあったが、固定資産税と源泉税などを積み立てて、自分の取り分だけでも同年代の大手企業に就職した男性と変わらないほどの収入があった。しかもそれは建て直しをするまでの間続くのである。家賃収入は労働収入と違い権利収入だから自分が休んでいても、遊んでいても、入院していても減る事はない。まして、死んだとしても、名義を変更すれば息子や妻にその収入は続いてゆく。
真田村へ行ったらしばらくはこの収入を当てにして暮らすことになる。建替え準備金を積み立てても月に20万ぐらいは残る計算になる。家賃がかからない佐久間家に世話になるとすれば、丸々残るから赤字を出さなければやれる商売を考えればいい。そう思ったら、向こうでの生活も案外楽しいものになるかも知れないと予想していた。
伯父の家を出て自宅へ戻ってきた二人は、一階の佐伯家の呼び鈴を押した。
「は~い、どちらさまですか?」
「木下です。おめでとうございます」
「志野ちゃん!貴雄さん!帰ってきたのね!おめでとうございます。中に入って!さあ、どうぞ。瑠璃!しーちゃんよ」
声で解ったのか、瑠璃は走り寄ってきて志野に抱きついた。さっと救い上げて抱きしめた志野は、頬擦りをして歓迎した。
「お利口にしてた?お土産があるから、それと・・・はい!お年玉」
「ありがとう!ママ!もらったよ」
瑠璃の幸せそうな声が響く。亜矢も嬉しそうにしていた。真田に行くと知ったら・・・悲しむ親子の顔は見たくないと気持ちが沈む・・・
「ねえ、貴雄さん。今日は来られるかも知れないって思ったから、すき焼きの用意をしていたの。食べてゆかない?」
「へえ、すき焼きか・・・お節も飽きたから、嬉しいけど、迷惑じゃないの?お金使わせちゃって・・・」
「何を言ってるの!世話になっているのはこちらの方よ。これぐらいの事はさせてよ」
「じゃあお言葉に甘えて頂きます。そうだ、これは伯父からもらった年賀なんです。多分いつもくれる昆布巻きの詰め合わせ、ご存知ですか、有名らしいです。これ食べて下さい。今日のお礼と言う事で・・・」
「いけませんわ、それはあなたにと伯父様が差し上げたものでしょ?人にあげるものではないですよ。ねえ?志野さん」
志野は亜矢の方を振り返って、
「そうですね。でも私たちが頂いた物なので、みんなで食べるということにすれば宜しいじゃないですか?」
「志野、いい事言うね。亜矢さん、そういうことにしましょう」
作品名:「不思議な夏」 第十三章~第十五章 作家名:てっしゅう