「不思議な夏」 第十章~第十二章
男は「何をする!痛いじゃないか。何もしていないのに」と喚いていた。誰かが連絡したのだろうか、車内乗務員がやってきて、事情を聴き始めた。無線で連絡して次の駅で降ろされることになった男と志野は、しばらくして駆けつけた警察官と話し合うことになった。隣に座っていて注意をしてくれた女性も、志野に着いて降りてくれていた。
一通りの説明をすると男は「違う!」と叫んで、「こいつが俺に触ってきたんだ!」と怒鳴った。警察官が制止しても、興奮して、「俺は悪くない、なんでこうなるんだ!」と喚いていた。これ以上騒ぐと手錠をかける、と言われて男は静かになった。
未成年である志野は保護者を呼ぶように言われた。貴雄に電話した。事情が事情だけに伯父に連絡して、駆けつけてもらえるように頼み、同伴した。所轄の警察署で志野に面会した。
「志野!大丈夫か?」貴雄は心配そうに話しかけた。伯父の泰治は自分が養父である事を告げた。そして弁護士であることも名刺を出して知らせた。
担当警官は、一通り経過を話し、相手の男性を痴漢の現行犯で逮捕した事を伝えた。告訴の意志を尋ねられたので、志野に確認して、今回は不起訴にした。警官はすべての処理が終わった後に、泰治に向かって「しかし、ビックリしました。お嬢さんがねじ伏せるなんて・・・柔道でも習われているのですか?」と聴くので、「いえ、気が強いだけです。ご面倒をかけました」と丁寧に返事した。にこっと笑って、「ではお引取り下さい」と言われて、三人は外に出た。
志野は自分を助けようとしてくれた女性に感謝を述べた。女性は謙遜するように、「私がおせっかいをしたばかりに御迷惑を掛けました」と謝ったので、「それは違います。ありがとうございました」と言い返した。時間が時間なだけに、貴雄と伯父の泰治は食事をしようとその女性も誘って、レストランへ車で向かった。
「今日は大変だったね。志野もこれから外に出るといろんなことが起こるから、気を付けなさいね」養父はそう言った。
「はい、心得ます」
貴雄は助けを出してくれた女性に礼を言った。
「志野の事気を遣って頂きありがとうございました。まだ社会人一年生なので身勝手をしてしまったようです。お許しくださいね。お名前伺っても構いませんか?」
「はい、山本と言います。志津枝です。聞いても良いですか?志野さんはお幾つなんですか?」電車の中で最初に声を掛けてくれた女性は山本志津枝と名乗った。
「山本さんですね・・・はい、16歳です」
「本当に?見えませんが・・・もうお仕事されているのですか?」
「ええ、今日が始めての日でした。そんな日の帰りにこんな目に会うなんて、ツキがありませんわ」
「そうでしたの・・・私はお稽古事に行っての帰りです。一人暮らしなので休みの午後は毎週通っています」
「お休みが今日だったのですね。つまらないことに巻き込んで本当に申し訳なかったです」志野は再度頭を下げた。
「いいえ、あなたの勇気ある行動を見て、感激しました。女性って泣き寝入りされる方が多いので、私には許せなかったのです。男性に勝てるとは思いませんが、黙って見てられなかったのです」
「そうでしたか・・・ご立派ですわ。志津枝さんはお仕事何をされているのですか?」
「はい、看護士です。途中の春日井市にある中央病院に勤めています」
貴雄が口を挟む
「中央病院・・・そうでしたか。看護士さんも大変な仕事ですよね。交代勤務でしょ?」
「ええ、そうなんです。不規則で患者さんより不健康ですわ」
「こりゃ可笑しい、ハハハ・・・」泰治は笑った。
その場の雰囲気が柔らかくなる泰治の笑いであった。
「しかし、志野さんはお強いですね。びっくりしました。酔っているとはいえ男性をあっという間に取り押えられましたから」
「お恥ずかしいです。周りの迷惑も考えずにやってしまいましたから」
「いいえ、そんなこと・・・身を守るために当然ですよ。何か習っておられたのですか?柔道とか・・・」
「いいえ、見よう見まねの柔術です。父から教わった護身術とでも言いますか、剣道と一緒に教えて頂きましたから」
「そうですか、こちらのお父様ですよね?」
泰治は手を横に振って、
「私じゃないんですよ。養父ですから」
申し訳なさそうに志野を見て、志津枝は、
「ごめんなさい・・・気を悪くなさらないで下さい」と頭を下げた。
「気にしないで下さい。父はもういませんから・・・」
何か複雑な事情があるのだと志津枝は思った。食事が済んで、時間も遅くなってきたから、帰る事になった。泰治が志津枝と貴雄、志野とそれぞれ送ってくれた。帰り際に、志野は志津枝の連絡先を聞いて携帯に登録した。志津枝もまた同じように登録した。
「志津枝さん、今日のことは何かの縁です。時間を見てまた会っていただけませんか?」志野が言うと、
「はい、こちらこそそう願っていましたから、嬉しいです。メールしますから返事くださいね」
「ええ、是非とも」
二人の出会いは偶然だったが、志野に新しい友達が出来そうな予感があった。歳は25歳、独身。貴雄と同い年であった。
毎週決まった日の帰り時間に、志野は志津枝と待ち合わせして、駅前にある喫茶店で話をする事が楽しみだった。志津枝は熊本の高校を出て名古屋の看護学校に入校し、今の職場に就職していた。両親の勧めで都会に出た志津枝はなかなか水が合わず、友達も出来ずにいた。なんというのか、質素で堅実な性格がどうも嫌われるようなのだ。
一人暮らしは退屈するので、雑誌を見て募集のあった刺繍に興味を覚え、今の教室に午後から通うようになっていた。一緒に習っている女性は高齢者が多く、今ひとつ友達と言う感覚にはなれずにいた。志野はその点年下ではあったが、物腰も柔らかく、規律良く、勇気ある女性だったので魅かれていた。
今日は志津枝が作った作品を志野が見せてもらえることになっていた。
「お待たせ、志野ちゃん。遅くなってゴメンね」
「いいえ、気にしてませんから。それより、早く見せて下さい」
「はいはい、気に入ってくれるかなあ・・・これね、あなたのイメージで縫ったのよ」
レースのついたハンカチに、可愛い花の刺繍がしてあった。
「まあ、素敵!可愛いですね。お上手に出来ていますわ」
「ほんと?気に入ってくれた」
「はい」
「じゃあ、あげるから持って帰って」
「ありがとうございます。志津枝さんの優しい気心が表れていますね。志野は本当に良いお友達に出会いました」
「志野さん、私もよ。ずっと仲良くしてね・・・結婚しても」
「ええ、そうします。結婚ですか・・・したいですね、ハハハ」
「あら!珍しい、笑ったのね、ハハハ・・・私もいい人いないかしら・・・こんな性格じゃ無理よね」
「何を言われるの!素敵な人なのに。きっと現れますよ、心に強く念じて過ごすと・・・叶うって、言いますから」
「そう、じゃあ今からそうするね・・・ありがとう」
1時間ほど会話して、同じ電車でそれぞれの家に帰るそんな事が続いていた。
作品名:「不思議な夏」 第十章~第十二章 作家名:てっしゅう