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郷田三郎(G3)
郷田三郎(G3)
novelistID. 29622
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ノックの音

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ノックの音がしている


<ノックの音がしている(another sound of knock)>

 ノックの音がした。

 どうやら眠ってしまったらしい――。
 ちょっと休憩のつもりで自動販売機から眠気覚ましのコーヒーを買って飲んだところまでは憶えているのだが……。
 どのくらい眠ったのだろう。内ポケットから携帯電話を取りだして見る。
 腕時計は持っていない。時計をしていると手首の自由が奪われる様な気がするのである。
 昔は腹時計さえあれば事足りるような生活しかしていなかったのだ。
 携帯電話のデジタル表示はコーヒーが何の役に立たなかった事を私に教えてくれた。
 勝手に休憩に入ってから既に一時間程が経過していたのだ。
 事務所に戻ったら又あの小心者の課長に小言を言われるのだろう。

 ノックの音は鳴り続けている。

 私の目を覚ましただけでは飽き足らないのか、ノックは私の心の中の遠い記憶さえ呼び起こそうとしていた。
 川面を渉る風。草いきれ。土ぼこりの匂い。仲間達の声。口の中に汗の味がよみがえる。
 汗の味はやがて血の味に代わる。
 イレギュラーバウンドした打球が下唇に当たった時。吐きだした血液の中に折れた歯が混じっていた。
 しかし、その痛みの方はさっぱり思い出す事が出来ない。不思議なものだと思った。

 プロになれるとは思っていなかった。
 それほど甘い世界ではないと知ってもいたし思い込もうともした。
 しかし、高校を卒業する時に実業団から声が掛かると、その申し出を一も二も無く私は受け入れた。
 そして、ノンプロの練習は高校の時とは比べようも無く厳しかった。
 一緒に入った仲間は一年も経った頃には半分に減った。
 自主的かクビか、実力の無いものは辞めるしかない世界であった。
 次の一年では私自身が去る側に回った。

 結婚でもしていればもう少し頑張れただろうか。
 過去に可能性を求めても何の意味も無い。私はそれを充分に知っている。

 ノックの音が変った。人が交代したのだろうか。

 仰向けのまま開いた目には、青い空に浮かぶ白い雲の流れだけが見えている。
 ふと昔の仲間に連絡をしてみようと思った。
 半年ほど前に街で偶然あった時に、一緒にどうだと誘われていたのだ。
 もちろん遊びだと奴は言っていた。
 当然だ。全てを掛けていたあの頃とは違うのだ。
 私は勢いをつけて川原の土手から起き上がった。
 河川敷では少年野球の子供たちが元気な声を上げて、ノックを受けるチームメイトを励ましていた。

 私は転がった空き缶を拾ってゴミ箱へ投げ捨てた。


 おわり
      2011.04.08 (2012.9.16 丁度1000文字に修正)

№089、105
作品名:ノックの音 作家名:郷田三郎(G3)