白い華 ~華の劈開(へきかい)~
空也の胸に添えられたユイの手に力が入った。
「どうしてって、俺が困っているからだよ、愛しているなら、それくらい都合してくれても良いじゃないか」
空也の声が微かに苛立ちを含んでいる。が、ユイの体を抱きしめる腕は優しかった。
「違うよ、空也、愛の証は、金じゃない。別のものだ」
ユイの頭にちらりと浮かぶ、白い影。
「いや、そうだよな。愛は金で得られるものじゃないって、わかるよ。俺だって。でも、今の俺にとっては金が必要なんだ。ユイ。……だが、……お前が俺を愛していないのなら、出せないって言われても、仕方がないことだけど」
ユイの体から幾分自分の体を離して言った空也のその言葉は、落胆の響きをかもし出していた。
この男は愛の証を得られないことに悲しんでいる。
ユイは慌てて、その男の言葉を否定した。
「愛している、それは、本当だ。空也、お前、私の言葉を疑うのか」
「いいや、そうじゃない。そうじゃないけれど。……ユイ、愛に証を立てろなんて、俺は言うべきではなかったな」
空也の声は、先ほどの甘さが毛ほどもなかった。
ユイはその声の冷たさに男が遠ざかる幻影を見たような思いがした。
証を立てなければ、この男は自分の傍から永遠に立ち去ってしまうかもしれない。それは、ユイにとって始めて味わう恐怖だった。男が永遠に自分の前から姿を消す。この眼差しも、腕も、唇も、目の前から去ってしまう。失うことの恐怖がユイの胸をきりきりと締め付け脳幹を揺さぶった。
身が捩(よじ)れる。毛穴の総てが凍って、粟立つ。
この男を失いたくない。そう、ユイは思った。
「私は、私は、……、空也、どうしても、愛の証が欲しいのか……」
「ああ、ユイが俺を愛してくれるのなら」
「今、じゃなきゃ……駄目なのか」
「ああ、ユイ」
「そう、…か」
ユイは立ち上がった。
キッチンへ向かう。ちょうど良い得物は、多分、そこにあるはずだ。
愛する男を永遠にこの場所に縫いとめるために、ユイは自分の証を立てるために、キッチンへ向かった。
男は永遠にあの地下室で自分と共にあるのだ。
大切な愛をこの地に残すことができたとユイは思う。
母の体と一緒に横たえた空也の体は、きっといつまでも私の心を温もらせてくれるのだと確信していた。
父はまだ、帰らない。凍るような氷雨が、音もなく降り続いていた。
* * * * *
応接用に仕切って一室にしている空間は、小さいながら少しはすっきりと片付いてはいる。とはいえ長椅子、テーブル、二脚の椅子の応接セットにストーブと、かなり窮屈だ。ここで仮眠をとることになったいきさつをつらつらと思い出しながら、名残惜しい温もりを振り切って、辰馬は胸元の毛布を引き下ろした。首筋が張って痛い。
まだ長椅子のソファで密やかな寝息を立てているカミツを起こさないように立ち上がると、コートの表面を掌で確かめてみた。カミツの黒いコートは一晩中ガスストーブを焚いていたせいでどうにか着られるくらいに乾いているようだ。ごわつきが多少はあるが、大丈夫だろうと見当をつける。
今日は事務所が休みだから、たぶん所長はやってはこない。まあ、やってきたとしても彼のことだから、鷹揚に頷いてもらえそうだ。他の連中も大して急ぎの仕事はないはずだからでてくることはないだろう。零細事務所とはいえ、立て込んだ仕事があるときは、休日はないようなものだったのだが。
辰馬は昨日のカミツの様子を思い出して「しかたないか」と小さく口の中でつぶやいた。そのままにしておけるはずもなかった。道路も渡りきれないほどの発作を起して、冷えたアスファルトの上に倒れていたカミツを思い出す。
雨が冷たかった。その雨に濡れきっていた。一人で帰してしまうのが心配だった。彼を家族の手に引き渡すくらいは、せめて必要な気がした。
いや、それほど自分はいい奴じゃない。きっと、そのまま放置したとき起こるだろう最悪の事態を妄想したのだ。そして、その妄想を振り切ることができなかっただけなのだ。
一見、いい奴を演じてしまう自分は、多大な妄想癖が作り上げているような気がする。それでも、結果、いい奴になってしまうことに諦めもあった。偽善者と受け取られても、寝覚めの悪い思いをするくらいなら、それで、いい。
偽善の思いがなくても頂戴する偽善者のレッテルなら、まあ、いいさ。
鮮やかでポップな壁紙の、普通の意匠の時計を見上げる。八時になっていない。
ガスストーブの律儀で小さなうなりだけが羽音のように聞こえている。外の騒音は不思議なほど耳に届かない。いつもと同じなのかどうか、いつもをたいして気にしたことがなかったのでよくは分からなかった。
辰馬が給湯室に行きかけた時、小さな吐息を吐いてカミツが目を覚ましたようだった。
「カミツさん、おはようございます。体調はどうですか、俺これから簡単な朝食を作りますから食べてください。食べたらお宅まで送りますよ」
「いや、そんな必要はない、大丈夫だ」
声にはまだ力ないが、うっすらと目を開けると、頭はとうに目覚めていたのか、カミツは即座に辞退した。よっぽど頑固な性質(たち)の人なのか、辰馬は呆れが息にでるのを、慌てて飲み込んだ。
「だ、だめですよ、また発作が起きたら大変でしょう!」
「いや、いや、……。ここからは、その、……遠いんだ、私の家は。車でも三時間はかかる……田舎だ」
「え? それならなおのこと、俺、送りますよ。JRとかだったら、乗り継ぎもあって、もっと時間かかるでしょう。車のほうが、いいんじゃないかな。大丈夫、俺、今日は暇ですから」
「いや、そこまでしてもらう、……理由など、……あまりに……」
不承知を頭につけて言葉をつむぐ、辞退の声を掻き消すようにばたばたと給湯室に消えると辰馬は朝の支度に取り掛かった。
確かにカミツの家はかなり辺鄙なところにあるらしかった。海岸に沿うように続く高速道路からは、黒々とした豆が幾つも転がっているように、牛の放牧が見えるだだっ広い牧場があった。高速道を降りて脇道へ何度も入り込むと、幾つもの坂の上がり下がりがあり、ほとんど車道とは思えないほどの細い道が森の中を続いた。
昨晩の雨は、この辺りには降らなかったのか、路面は乾いているように見える。道沿いは葉を落とした樫か、ブナらしき森や、落葉松林が多く、時々見える畑はほとんど収穫が終わっていて、残された茎や枯れ葉がからからと風にもてあそばれていた。
道を示す以外、カミツはほとんど口をきかなかった。
辰馬が間が持てなくて繰り出した会話の糸は、カミツの「ああ」とか、「いや」という声でぷつんと切れた。仕方なく雑音の底に拾えるか拾えないかの音楽を呟くカーラジオをつけて、車窓に広がる枯れてぱさついた油絵のような風景を垣間見ながら辰馬は運転を続けた。
道路の端に「神津」という文字を見つけた。
赤黒く朽ちかけた看板のその文字の後に「私有地」という文字が続いていた。元は、鉄板に白いペンキを施して、文字は黒々としっかりと存在を示していただろうものが、錆に塗れていた。
その縦看板を見つけてからも道は続いた。「私有地につき、立ち入り禁止」という小さな標識のような看板が、所々に立てられている。これも親看板に負けず劣らず朽ちていた。
作品名:白い華 ~華の劈開(へきかい)~ 作家名:すおう るか