白い華 ~華の劈開(へきかい)~
シャッターの閉められたなにがしかの事務所の入り口が、ぼうっとした常夜灯に照らされているくらいで、辰馬の求める人を招き入れるがために灯されるイルミネーションは、ない。
辰馬は傘の柄をいらいらと握りなおした。
タクシーに乗ってしまおうか。
辰馬の事務所まで歩いても二十分足らず、この距離では乗車拒否されるのが落ちだろう、だが。迷う。行き交う車のテールランプが優柔不断な男を嘲るように点滅した。
車道に向かって戸惑っている視線を漂わせた。その先に、不意に、ふらふらと黒い影が小路から飛び出して車線を横切るのが見えた。影はつんのめるように止まると、がくんと小さくなった。いや、そう見えた。辰馬はその黒い影の正体を見極めようと濡れきった傘を持ち上げた。
人か?
小さくうずくまったその影は、横断しきっていない車道の端から動かない。冷たい雨はまだ降り止まずその黒い影にも降り注いでいた。辰馬は瞬時迷って、それからその影に近付いていった。
ぐっしょりと濡れたコートの襟に顔を伏せてその男はうずくまっていた。比較的大きながっちりした体つきだが、灰色がまばらに混じった頭に男の年齢が伺えた。傘を差し向けて、男が肩で息をしているのに辰馬は気がついた。
「大丈夫ですか、……とにかく歩道へ」
男を助け起こしながら取った腕に妙な感覚を覚えた。堅いのだ、左腕はまるで金属のように堅い感触だった。何か腕に抱えているのだろうかとも思ったが、男は何も持ってはいなかった。つんのめるように倒れたのだろうから、頭を打っているかもしれない、辰馬はコートをずらして男の頭を出させると傷の有無を確かめた。幸いどこにも血痕は見当たらなかった。
「ああ、ああ、違うんだ、……ユイ……」
男は何やら口の中でつぶやいているのだが語尾がはっきりせず聞き取りにくかった。眉がひそめられて目をつぶったままで息が荒い。
「…ゆ…い? 大丈夫ですか、どこか痛いですか」
「ああ、胸が……、少し苦しい……」
男は右手で胸を押さえている。狭心症の発作か何かかもしれない。やたらと揺するのはまずいか。
「車を止めます。かかりつけの病院はありますか」
「……いや」
「じゃ、ここから近くの病院を探します」
「いや、病院は、いい、病院は……。大丈夫、大丈夫だ」
男はゆがめた顔を辰馬に向けた。荒い息はだいぶ治まってはいるが、苦しそうな眉間は先ほどと変わらない。
「しかし、このままじゃあ……」
「もう少し休めば、なんとか治まる、頼む、病院はやめてくれ、頼む……」
理由はわからないが苦しい息で病院に行くことを男は執拗に拒否した。男の息遣いは先ほどよりは静かになっている。だいぶ発作が治まってきているのかもしれない。辰馬はしかたなく止めた車に自分の事務所の条丁目を告げていた。
カミツというのがその男の名前であった。姓なのか名なのか辰馬は聞きそびれてしまった。
辰馬が勤める事務所は仮眠室などない狭い造りで、普通のマンションの一室を借りて事務所としている類のものだ。事務所の中は至極雑然としていて、数人のスタッフが詰めれば、空気が希薄になるような気がするほどの手狭さだ。
一応リビングだったと思われる一室は、十六畳の中央に大きなデザイン用の机が背中合わせに四脚鎮座しており、机を隔てる通路は狭い。壁際には資料用の本棚がそびえたち、壁面の色さえ垣間見ることができない。傍らには、この場所にふさわしいとは思われない物たちに埋もれるようにしてパソコンとプリンターが載ったテーブルがあるほか、平積みにされたファイル・書類がいたるところで己の存在を主張していた。手狭ではあったが、それでも小さなキッチンのような所が奥にある。ひどく雑然としたリビングを抜けて、辰馬は珈琲メーカーのスイッチを入れにそこへ引っ込んだ。
ガスストーブの炎が部屋の中をようやく暖めてきたようだ。
応接用のものだろう一室の三人掛けのソファに毛布を数枚かけて、拾った男は休んでいた。濡れ切った衣服は体を冷やすだけだったので、今、男は下着姿のまま毛布に包(くる)まっている。壁一杯のポップな絵画の下に、黒いコート類が干されていた。
男の左腕は辰馬が気づいた通り義手だった。
灯りの下で見る顔は五十前後だろうかと値踏みして辰馬は男を見下ろした。
「落ち着きましたか、俺は高沢辰馬。零細デザイン事務所で働いてます。ここがその事務所っていうか、まあ、事務所らしき所、そんなとこです」
辰馬は珈琲カップを手にカミツの横たわるソファの横に腰掛けた。カップを一つカミツの前に置く。
「すまない、迷惑をかけてしまった。高、高沢さん…」
身を起こしながらカミツは答えた。
「あ、まだそのままでいてください。カミツさんは、なにか持病でもあるんですか、かなり苦しそうでしたよ。俺のことは気にしないで下さい。それにこの事務所の所長は気のいい人ですから、全然遠慮することないです。そんなことより病院に行かなくてほんとうに良かったんですか。そっちのほうが、俺は心配なんですけど」
「ああ、いつもの発作が起きただけだから……しかし、あなたもお節介な方だ。私のことなど放っておいても構わなかった……」
カミツは低い声で言葉尻を濁した。
「どうせ、事務所に戻る途中だったんですよ。まあ、確かにね、お節介だったかもしれないけれど、いいじゃないですか。俺の性分です。とにかく、服が乾くまではここに居て下さい」
カミツの視線はなぜか泳いで辰馬の顔に留まらなかった。
お節介か……。辰馬は心の内でつぶやく。
お節介な気質は誰から受け継いだんだろう、母方だろうか、母は結構世話好きだったと思い浮かべながら、辰馬は無愛想な客人の横顔を窺った。行き倒れになるとまでは言わないが、あの氷雨の中だ。路上で発作を起こしたまま交通事故に巻き込まれていたかもしれない。普通そんな難事を助けられて感謝しない人はいないと思うのだが、それをこのカミツは余計なことと思っているらしい。
だがそんなことでくさる辰馬ではなかった。とにかく無事であったことにホッとしていたのだ。カミツの顔にようやく赤みがさしてきたように見えた。辰馬は派手な壁紙の中に浮いている事務所の時計を見上げた。深夜の一時を回っていた。
「少し眠ってください。もう、こんな時間です。明日は事務所も休みで誰も来ませんから、何でしたら、明日中ゆっくりしてもいいんですよ。カミツさんは大丈夫だと言っても、あの時のあなたの顔色はかなりひどかったですからね」
カミツは何か言おうとした口をつぐみ、目を瞑ると毛布の中に首を竦めた。
もう、会話をする気はないらしい。
しばらくカミツの表情を窺っていたが、あきらめて辰馬もまた、一人掛けのソファに毛布を引き寄せた。ガスストーブの炎の音がジジジと掠れながら聞こえていた。夜半に氷雨は雪に変わっていた。
神津の頭に昨夜のユイの血に塗れた姿が思い浮かんだ。うう、と苦しい息を吐いた。あれは夢なのだと思いたかった。「証」という言葉が閉じた目蓋の奥でぐるぐると回る。その言葉の向うに乗り捨ててきたバイクが斜めに傾いでいた。胸が重かった。頭も重かった。睡魔が襲う。その落ちてゆく眠りの先に哀しい思い出があった。
* * *
久しぶりに大雪が降った朝だった。
作品名:白い華 ~華の劈開(へきかい)~ 作家名:すおう るか