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すおう るか
すおう るか
novelistID. 29792
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白い華 ~華の劈開(へきかい)~

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自称の類はいつも不確かで、手前勝手なものだ。名乗ることで、そう扱ってくれと強要されても困る。本当なのか虚言なのか。果たしてどれほど名の売れた男であるのかは、わかるはずもなかった。神津の別荘には地上波を受信するテレビなどないし、音楽はもっぱらクラッシックを彼は好んでいたこともある。
人里離れたこの地にどんな目的を持って入り込んだのか、男の周囲には今粉砕したばかりの魚粉よろしく、胡散臭さがぷんぷんと匂っていた。
秋の夕暮れ時だった。内々の仕事を任せている重松夫婦が、久しぶりに休暇を取って旅行に出かけた後の静かな午後だった。誰も訪れるはずのない別荘にこの男はやってきた。
「いやあ、すみません。道を間違えてしまったようなんすよ。このへんは標識も何にもなくて。いやあ、参った、参った。俺、江藤空也って言います。このへんの地理には全然疎くて。……バイクのガソリンもなくなってしまって、ほんと、どうしようかと困り果てていたんですよ」
男の舌は滑らかにすべり、視線はまるで値踏みするように別荘をねめ回した。ボストンバックを一つバイクにくくりつけて、黒の革ジャンにGパン姿。ヘルメットのバイザーを上げて見せた目はどこか獣じみていて鋭かった。
「それは、お困りでしょう。ガソリンをご用立てしましょう」
神津はさっさとこの男を放り出したかった。
「あ、いや、すんません。ずいぶん疲れてしまって、休ませてもらえませんかね、いや、ほんの半日でいいですから」
「しかし……」
言いよどむ神津を男は押し切った。
「お願いしますよ。もう足が痛くて、痛くて。もう、このバイクをですね、本当、ずっと延々、押して歩いてきたんでくたくたです……。あ、お嬢さんですか、いやあ、びっくり。お綺麗なお嬢さんですね」
神津が振り返ると興味に溢れたユイの表情が扉のすぐ後ろにあった。いつの間に戸口に来ていたのか……。神津は、己のうかつさを瞬時悔やんだ。ユイは本物の若い男をみるのは初めてだったのだ。父である神津と、高齢である重松夫婦以外の人を、ユイはほとんど目にしたことがなかった。
妙に白々しく響く、お世辞を扉の影のユイがどう受け取ったのか……。
神津は苦々しく男が訪れた日を思い出した。

何かと理由をつけてこの別荘に留まろうとした時に無理にでもこいつを放り出してしまっていたら、こんなことにはならなかったはずだった。結局男はずるずると一週間も別荘に留まったのだ。
この男は、外界との接触を極力封じてきたユイの生活に飛び込んできた黒い石だった。二十二歳まで純粋培養のように育ててきた娘の目にこの男がどんな風に映ったのか、神津は厭々ながら想像してみる。
人間には理解しがたい下衆な質を持ち、かつ愚かな行為をする人間もいるなどと、どうしてユイにわかるだろう。ユイの周りの人間は数少なく、そして善意と友愛以外の情はなかった。自分と重松夫婦が彼女を愛し、慈しみ、花のように育てた。敵意も害意も知らず、虚飾に彩られずユイの世界は真っ白だった。
この男は台無しにしてしまったのだ。ユイの世界を。
そう思えば、この男の死は自らの贖罪行為のような気もした。神津は足下の血に塗れた男を無慈悲に見下ろした。目の前にはかつては人であった血塗れた死体があった。
だが、どうする。これをこのままにしておくことはできない。重松夫婦も明後日には帰ってくるだろう。その前にかたをつけなくてはならないのだ。
「お父さん、この人は、あの部屋に入れなくてはならない、地下の鉄格子の部屋に」
  神津は自分の巡らせていた過去の思いから浮上した。
ユイの声には、これは正しいという確信の響きがあった。
「え?」首を回した。「地下って、ユイ……」
「そうしないと、証にはならないだろう?」
 地下に? ……ああ、神津はうめきを漏らした。胸がざくりと裂かれる思いがした。ユイは何を知っている? 何をどう理解している? なぜ、地下なのだ?
ユイは男の頭を抱きかかえようと手を伸ばした。男の胸の血が脇に回したユイの腕を再び緋色の染料のように容赦なく染め上げた。
「ユイ、お前、違う、それは……」神津は言いかけた。
殺すことが愛の証になる? 違う!
地下室に安置することが愛している証になる? 違う!
そんなはずがない。
どこでユイは間違ったのだ。
混乱した思索を堂々巡りするが、何故がわからない。だが、その理由を手繰り寄せる余裕など神津にはなかった。
「違う? いいや、違わない。お父さん、運ぶのを手伝ってくれ」
 神津は固く目蓋を閉じて頭を垂れた。しかし、それしか方法はないように思えた。今はそうするしかない。この死体を早急に処理するには、ユイの言うように地下室に運ぶしかないだろう。
男の荷物は、それにバイクはどうする。
どこか、遠くに持ち去る必要があるだろうか。バイクは足がつく。どうにかしなくては。
男の身元を確かめるのは後でいい。
この血を拭かなくては。
ユイの口をどう塞げばいいだろう。
何もなかったことにする画策を頭の中で巡らせながら神津は男の足を右脇に抱えた。


 * *   

秋も終わろうとする頃の雨は氷雨と呼ぶにふさわしい。夕暮れ前から降りだした雨は群青に暮れ切っても止む気配はなかった。傘を差していても吹く風に煽られた冷たい雨が体を濡らす。冷え切った体に傘の骨から落ちた雫がこぼれて染みてくる。急な仕事が入らなければこんな道で雨に濡れていなかった。貧乏くじはいつも自分に回ってくる。ペーペーの身分では仕方ない。高沢辰馬は小さく舌打ちをした。
明日の休みは何もないだろうな。まあ、多分、この時間だ、そんな話はないだろう。
道の両側は重たい緑に覆われた篠懸(すずかけ)の木が続いていた。街路樹としてはかなりの高木だ。葉は大きくよく茂るので、日差しの強い真夏には重宝している木なのだろう。闇の中に飲み込まれるように道の先は見通せないが、今歩いてきた道の両側はみな篠懸だったから、この並木はかなりの距離続いていることになる。足元には大きな葉が重なり合って落ちている。雨に濡れて滑りやすい。足をとられまいとすると、妙に、滑りそうで怖い。
冷たい雨は町全体に紗を掛ける。町の灯りは柔らかくぼかされ、車のヘッドライトに、闇が一瞬銀幕のように見えた。
高沢辰馬は先ほどの広告代理店の、担当の顔を思い浮かべた。こちらが無理を言っているのに、鼻の頭にひっきりなしに汗を浮かべて始終恐縮していたその顔は、なぜか必死に餌を食むハムスターを連想させた。謙(へりくだ)りながらも、餌をしっかり手に入れる。多少理不尽であっても己の矜持(きょうじ)を引っ込める。普通は、そうだなと思う。多分、自分もそうする。時に自負は邪魔だ。
急に熱い珈琲を喉に流し込みたい欲求が辰馬の心に湧いてきた。だが、首を巡らし見回しても喫茶店らしい構えは見あたらない。冷たい雨を受けながらひときわ大きな枯れ葉がくるくると舞って道に落ちた。その車道の向こう側のビルにも飲食店はない。

ここら辺りはこんなにも寂しかっただろうか。派手な屋外広告のない道の両側は暗かった。