素晴らしい偶然
時刻は午後八時十分になっている。目的地に到着するのが八時二十五分。印刷原稿を納めてから、待たせておいたタクシーに再び乗車するのが、八時三十五分。彼女に会えるのが、八時五十分。
遥か前方で、紅い灯火が幾つも点滅している。
「火事かも知れませんよ。迂回しますか?」
「急いでいるんです。信号が少ない裏道で行ってください」
吉野は興奮気味に云った。
「わかりました。急いで行きましょう」
車はタイヤを鳴らしながらすぐに左折して裏道に入った。そのあとは右折し、雑居ビルやマンションが立ち並ぶ中を乱暴な運転のタクシーは疾走する。
「昔、カーレースをやってたもんでね、待ってました、という気持ちですよ」
「それはありがたいです。乗った場所に八時四十五分までに戻りたいんです」
「あと三十分か。楽勝ですよ」
「済みません。助かります」
吉野のまぶたから涙が溢れだしそうになる。色とりどりのネオンサインが重なって文字が読み取れない。若い乗客は手で涙をぬぐった。