素晴らしい偶然
排気ガスと共に、晩秋の風が流れる交通量の多い通りで、彼はタクシーに乗ろうとしている。手を繋いで歩くカップルが目立っている。絶対に午後九時までに、彼女に会いに行きたい。美しい女性と手を繋いで歩く自らの姿を、彼は想像している。そうしていると、この前のレストランで聞こえた声が、彼の耳元で再生された。実にきれいな、爽やかな声だ。発音も非常に好感の持てる、きちんとしたものだ。あのとき無理をして話しかけたとしたら、どうなったのだろうか。
後方からきたらしい個人タクシーが眼の前に停車して、ドアが開いた。気が付くのが遅かった。
「乗るんですか、乗らないんですか?」
初老の乗務員は吉野を睨みつけた。
「すみません。乗せてください」
慌てて乗車し、行く先を告げた。
「どうも、最近の若い人は、ぼおっとした人が多いようですね。そんなことで、日本に未来はあるのかと思いますよ」
「はい」
吉野の耳に乗務員の声は届いていなかった。いまの彼にとって、日本の未来よりも、午後九時までに山中美由紀に会えるかどうか、ということの方が重要だった。